すぐに「キレる」人が増えている、と!

 すぐキレる人が増えているようです。社会全体が、正解を求めすぎているのでは、と感じることが多いようです。それも「一つの正解しかない」と思い、その一つの正解から外れると阻害されることになり、その阻害された人はキレることになります。
 「正解はほんとうにひとつしかないのですか?」、視点が変われば、「正解も変わるのでは」と思うのですが。
 もっと「曖昧」を許容する世の中であってほしいですね。曖昧が許容される社会は、極端な独裁者が現れることもなく、ある意味、いいかげんな政治も許容され、ゆるやかな社会になると思うのですが!

電気代はこまめな節約が大差を生む!

 ロシアのウクライナ攻撃にのため、電気代にも影響が出ています。現在は外国との取り引きが一般化しているので、致し方ないですね。この際、思い切ってもっと節電に取り組んでみませんか。
 戦争があってもなくれも、地球の温暖化への対応が求められています。電気の節約はどうしても取り組まなければなりません。世の中の変化を冷静に受け止め、工夫していくしかないのでしょう!

肥満は自己管理ができない証拠?

 肥満は、生活習慣病とは言い切れないとか。「過剰なストレス→脳疲労→五感(味覚)異常→行動異常→肥満」で説明できるという。
 現在、肥満対策として多くの健康食品が販売されています。もともと人類は食料を入手することに苦労し、いろいろなものを料理することで、食糧危機を乗り越え、住むエリアを拡大してきました。しかしそれでも、最近の現在の日本のように豊かな食糧事情を手に入れることはできませんでした。
 その日本ですら、太平洋戦争後の食糧事情は厳しかったのです。庭を畑にし少しでも食料を手に入れ、また、金目のものを持って農家に出向き、食料と交換していた時代が70年ほど前にはありました。
 その状態から抜け出し、半世紀ほど過ぎると、食糧事情が良くなると同時に、大量の情報に接し、ストレスが増え、そのためか肥満が問題になってきました。
 そう言えばテレビで放送されている「ポツンと一軒家」では、肥満な人は見かけないですね。何かヒントがありそうですね!

自然の理に逆らっていない土地をさがすのは大変!

 土砂崩れが多くなっています。斜面を崩し、低いところを埋め立て、大規模な団地を造ってきました。クルマを通すため、傾斜地を削り道路を造っています。自然のままなら土砂崩れを起こさないところでも、開発により土砂崩れを起こしてしまいます。
 現在の法律は、車が通れないところには家を建てることは出来ません。そのため、どうしても斜面を削り、道路をつくざらるをえません。これも土砂崩れを誘発する原因になっているのでしょう。
 現在の技術では、道路に頼らず斜面エスカレーターでも対応できると思われます。エスカレータの屋根に太陽光発電パネルや電気配線を設置し、床下には上下水道を配置し、所々に消火栓をつければ、クルマ用の道路がなくても生活可能と思われます。
 エスカレーターの下に商店街や公共交通機関などがあれば、かなり便利になると思うのですが。それに元気なうちは、エスカレータを使わずに階段で上り下りすれば、健康にも良いのでしょうが!

争いたくないのに争ってしまう!

 他人との争いが起きるとき、「相手が悪い」、そして「自分は正しい」が基本にあります。ということは、争いの背景には「自己主張することは当然」という思いがあるのでしょう。
 この「自己主張は、本当に当然なことなのでしょうか?」と考えてみたことはほとんどありませんね。ほとんどの国は、自己主張は当然の権利として、その上で社会が成り立っているようです。
 日本もそうなのですが、自己の主張する力が他の国より弱いようです。そこに「曖昧な部分」があり、その曖昧な部分を、人々が自分流に解釈し、行動しているようです。
 災害が多く、山が多く、狭い国土で暮らさなければならない宿命なのでしょうか?
 そんな自己主張だけでは生きていけない環境の中で、周りを気にしながら、自己主張との妥協を図りながら、暮らしてきた環境が、新コロナ対策に対しても効果を発揮しているのでしょうか!

第二次世界大戦後の日本経済!

 太平洋戦争の後、日本は焦土の中から立ち上がってきました。いままで、これは普通のことと思っていましたが、アフガニスタンの状況を見ると、国家という概念がつくれるのかどうかと考えてしまいます。
 みんなで国づくりをするということはどうゆうことなのか?
 戦後の日本人の多くは、どのような国をつくるかは曖昧だったような気がします。思想的には曖昧なまま、とにかく生活(食べること)を中心にして、前に進んでいたようです。そして、少し食べることに余裕が出来ると、たとえば、畑になっていた庭をもとに戻していました。こんなやり方でまとまって行けた風土が、戦後の経済復興を成し遂げたのでしょう。
 日本の風土に「思想では飯は食えない」ということがあり、ほとんどの人が、どんな思想も受け入れることができ、良い・悪いはどうでもよい、悪ければ直せば良い、そして、直すことが出来る、という風土の基本になっていたのでしょう。
 思想で人をリードし、違反したら罪に問うという指導者がいた時代は、日本では争いが多く発生していた時代のようです。一人の個人が、時と場合により神も仏も信じる、そして、普段は神も仏も意識にない、という風土が、おだやかな国にする原点にあるのでしょうか!

道徳感や倫理観が過剰にまでに強まると不幸が!

 アフガンの今後が心配ですね。イスラム社会は一神教で、制約が厳しいため現在の経済社会には適応しにくいのでしょう。シルクロードが機能していた時代は、小さな集団で移動しながら商売ができたのでしょう。その結果、部族社会が定着し、その枠から抜け出した商いが難しかったのかも知れませんね。
 イスラム教は国によって多少の違いはありますが、道徳観・倫理観が、日本人から見ると過剰なまで強いため(日本は宗教については規制がゆるすぎるのですが)、自由主義を基本とした資本主義社会には適応しにくいのでしょう!

今後、どれだけの人口を養えるのか!

 地球の人口は、1960年は約30億人、2010年には約70億人になっています。50年で2.3倍になっています。この推移は危険だと思いますが、歴史の結果を見ると、今までは戦争か疫病で解決されています。
 現在この解決策として「昆虫食」が提案されています。「料理」というものは、ヒトの口や消化器官を補助する方法として工夫してきています。その結果、米や麦を食べることができることなり、農耕が発達し、ヒトの増加が可能になりました。今度は、昆虫料理に頼ろうとしているようです。
 なんとかいろいろと料理方法を工夫し、昆虫だけでなく、もっと多くのものを食べるしかないのでしょうね!

「長いものには巻かれろ」がより強くなった?

 アフガンやミャンマーのニュースを見ていると、日本人の「平和ボケ」をどうしても感じてしまいます。ただ、この平和ボケになれる環境を造り上げてきた歴史に、感謝するしかないのでしょう。
 一神教にならず、神様も仏様も同時に敬われる社会、また、天皇がいれば将軍もいるという、ある意味曖昧な社会であることが良かったのでしょう。
 専門家によるある部分に視点をあてた理論一辺倒は、やはり危うい社会になりやすいのですね。
 日本人の持つ曖昧さを大事にすると、平和な社会が続けられやすいのでしょう!

自分の言動を他の人の視点でとらえる!

 一般的には、「学校の成績が良い=記憶力が良い」と考えているのでしょう。そのため、一流大学を出ても、若いうちは大学のブランドがある程度通用するのですが、年齢を重ねるにつれて通用しなくなります。特に言動が良くない場合、大学のブランドが高いほど、教養(広い文化的な知識によって養われた品位)のレベルを低く見られてしまいます。
 これからは、新コロナの影響、そしてAIの進歩で、社会で必要とされる能力が変化するため、知識の記憶だけでは成り立ちません。現状をよく観察し、多彩な情報を組み合わせ、何かしらの智慧を見つけなければならなくなってきたようです!

一夜明けると間違いとされる「真理」もある!

 歴史においても「真理」とされてきたものが変わってしまうことがあります。また、報道においては、真理のごとく発信された情報が変わってしまうこともあります。NET上ではもっと頻繁に起きているのでしょうか。
 所詮、真理といえども人間の解釈です。事実をある方向づけし解釈したものが真理です。ということは、事実は変化しないが、真理は変化することもある、ということのようです。
 絶え間ない問いを続けて行くしかないのでしょうね!

『有用な人材』になるとは限らない!

 共同体での「有用な人材」とは、やはり、その共同体において何かしらのメリットを生む“しくみ”をつくる人、また、そのしくみを有効に活用していく人なのでしょう。それがお金に関係しているかどうかは別にしてです。

 昔からの共同体に残っている通過儀礼は、共同体のしくみを担当できる人として周りの人たちから認められる、という儀式なのでしょう。

 農耕文化が始まる以前は、他の動物と同じように、共同体の必要性はほとんどなく、家族を中心として単位で生き残り作戦を行っていたのでしょう。

 しかし、農耕社会になると共同体は大きくなり、それぞれの役割ができ、周りの人達と協力していかないと、生き残っていけなくなったのでしょう!

自分を好きになりたい!

 自分勝手に生きている人、そのような人は「自分自身が好き」なのでしょうか?、「自分勝手でいないと生きにくい」のでしょうか?
 いまでも秘教といわれるところで生活している人々は、「通過儀礼」を受けることで、その共同体のために生きていくことが自分の目標になり、それが、自分を好きにしていくようです。その共同体では、自分勝手は許されないのでしょう。自分勝手をやっていると、日本にむかしあった「村八分」のような状態になるのでしょうか?
 四国八十八箇所巡礼のときの「お接待」は、見知らぬ人にまで施しをします。最近ではボランティア活動もそうですが、「人のためにつくす」が生物の生き残り作戦の上で、最も大事なことなのでしょう。この遺伝子スイッチがONになった人が、ヒトの生き残りに有利だったのでしょうか?

儀礼的な「ごちそうさまでーす」よりも!

 「儀礼」とは共同体のルールなのですが、このしくみが何故つくられたのでしょうか。おそらく、生活している共同体で、その共同体に何かしら貢献するしくみとしてできたのでしょう。秘境で暮らす人たちの通過儀礼を見ると、生死がかかった通過儀礼もあります。その儀礼をこなすことができて、はじめて大人として扱われるようになります。
 現在、経済的に豊かになった日本では、儀礼は形式的なものになっていますが、地球の人口が半世紀で二倍を超えた現在、これから先、食糧不足問題が浮上し、共同体の中での助け合いが必須となる時期がくると、もう一度、共同体の中での貢献ができなければ、大人として認められない時期がくるのでしょう!

論理が重要なのか、感情が重要なのか!

 自然淘汰の法則の「弱いものが消えてゆく」というものですが、この解釈が「自然の中での出来事」ではなく、「社会の中での出来事」として解釈する人が多くなっています。
 ヒトの場合、食料を運ぶことが大変だった時代は、秘境や小さな島では、その土地で生産が可能な量で生活が可能な人数しか生きていけません。
 その中で、生物としての本能に基づく自然淘汰のしくみが必要でした。日本でも、「口減らし(人数を減らすこと。特に,子供を奉公に出したりして,生計の負担を減らすこと)」や「間引き」というしくみがありました。また、団塊の世代の就職時期から言われ出した「集団就職」なども、ある意味では口減らしなのでしょう。
 自然淘汰の法則は、社会現象との関わりが深いため、「社会の中での出来事」と思われるようになったのでしょう。
 ただ、新コロナの蔓延対策は、「社会の中での出来事」という発想では「民主主義国家で強い人=投票に行く人」中心ではなく、「自然の中での出来事」という視点で、新コロナ蔓延地区の人、その地域に出入りする人」のワクチン接種を優先する対策をしてほしいものです!

船舶による貨物輸送は格段に安い!

 現在の貨物輸送はトラック中心です。これは荷物の流れが効率的なためです。そして、ほとんどの道が無料で走れるので(自動車税やガソリン税は支払っているのですが)、物流コストが安くて済みます。そのためか、地産地消の重要性がなくなり、生産・製造のコスト低減が優先されてきました。その結果、ガソリンや軽油を大量に消費するようになってしまいました。
 これからは、脱炭素社会を目指すため、大きく見直されるときが来るのでしょう。しかし、まだ地産地消が中心となるという時代は、まだ来ないようですね。
 そして、修理しながら永く使うという製品・品物も、なかなか世の中に出てこないですね!

孤独な時間というのは人間の成長に必要!

 男女の不平等が社会的な問題とされています。平等とは「差別をせずに同じようにするこ」。「平」はやすらか、おだやか。「等」は、同じものをそろえて整理する。という意味もあります。もし、男女(男女に限らず)違いがあるのなら、その違いを考慮しながら、「おだやかなになるように、そろえ整理する」というように解釈することもできると思います。
 他の生物が人間を見れば、どれも同じようにしか見えないのでしょう(人がサルを見ても、なかなか見分けがつかないように)。普段、他の人を見るときに、無意識に何かしらの違いを見つけようとしています。違いにしか目が向いていないのでしょう。サルが、人間のテストの点数が100点と20点の人の違いを意識するのでしょうか?
 そういえは、テストには記述問題がありますが、先生が点数をつけるとき(100点満点の時)100点以上の点数をつけたいこともあるのでしょう。昔は103点とか、105点とかをつける先生がたまにおられましたが、点数をパソコンに入力するようになり、100点以上は受け付けられなくなっています。これも平等ですね!

貧乏な人とは、いくらあっても満足しない人のこと!

 幸福な国のブータンでは、おそらく「満足しない人=貧乏人」ということなので 幸せな国ブータンの平均年間所得は15万円程度、ということは「不幸な人=満足しない人」ということなのでしょう。
 日本でも70年ほど前(1950年頃)はみんな貧乏だったのですが、それほど「不幸だ」という認識はなかったように思います。ある意味、生きていることに感謝、ということだったのでしょう。
 経済成長し、豊かになり、そして格差が生まれ、不幸が生まれてきたのでしょうか。
 テレワークの普及で地方に移り、家庭菜園が広がると、食べることに対する不安が少なくなってきます。すると、少しは幸せな気分になっていくのでしょうか?

定住生活が始まると富が不平等に!

 「定住生活」という生活スタイルが、社会風土というものをつくり出すことに大きく関係しているのでしょう。同じ場所で水と食べ物がが手に入るか、そして、そこで何人が安定して暮らせるか、ということが、集落の大きさを決めていったのでしょう。縄文時代、東日本は比較的大きな集落があり、西日本、特に中国地方にはあまりない、ということは、東日本は水が安定して手に入るが、中国地方は夏には水を確保しにくいことが一因なのでしょうか? そう いえば、井戸に石仏があるのは瀬戸内に多く、東日本では灌漑など田園に水を引く事業に石碑が建てられていますね!

見えるものしか見ない人が増えてきている!

 「見えるものしか見ない」人が増えている。しかも自己中心。このような社会的な危機状態のときはやっかいですね。これも核家族で、しかも兄弟姉妹も少ない中で育った人が多くなってきたため、自己中心になってしまうのでしょう。社会的な危機を乗り越えるには、多彩な価値観を受け入れられる人が有利です。シェアハウスで育った子供は、いろいろな価値観の人達と、子供時代から接するため「生き上手」になるのでしょう。働き方改革が叫ばれていますが、育ち方改革も必要なのでしょうね!