「暗黙知」という知識があります。体験から学んだものです。
知識教育の記憶によってだけで、脳を働かせている人が主流になったのが、現代のリーダーたちなのでしょうか?
政治を含めて、現代の異常な犯罪は、どこか知識主体の教育の結果のような気もします。
田舎で、自然の中での経験は、組織のリーダーには向かないかも知れないですが、人間としての一生を考えると、こちらのほうが、幸せな一生になるのでしょう。
人類800万年の歴史の主体は、「暗黙知」がメインですから!
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何が正しいのか判断に迷ったとき!
ソクラテス哲学は「無知の知」に基づく「問答法」による!
「正解は1つ」は、ストレスが溜まり、起こりやすくなる!
今は、自分をさらけ出す時代だ!
現在の情況をありのまま見ること!
変化・変調気づくかどうかが大切!
AIはいちばんいい回答を絞り込んでくれる!
生成AIがどんどん普及する状況になっています。しかし、生成AIがやっていることを、自分自身で体験したことがありますか?
この原点は、日本では「知的生産の技術」(梅棹忠夫著 1969/7/21)だと思います。当事は紙の情報カードを使って、関連しそうな情報を組み合わせ、新たな知識を生み出すといったものです。
紙の情報カードが、PCでカード型データベースになり、SQLが利用されるようになり、扱えるデータ量がどんどん増えていきました。ソフトの値段もどんどん下がっていきました。
いきなり生成AIに頼るのではなく、自分(あるいはグループ)のデータベースを作り、そのデータベースで単語検索をし、見つかったデータを、いろいろ組み合わせ、遊んで見てはどうでしょう。
日本語の単語は、単に1つの意味ではなく、多用使われ方をしているので、思いがけないデータに出くわすことが普通にあります。
その経験で、生成AIに対する質問力を上げて、よりよい回答を見つけるようになると良いのですが!
感じる人工知能のほうが!
目標に向かって努力をした人の脳!
ChatGPT(相談型AI)サービスが開始されました。これは、結果的に「考える」ことが少なくなるようです。これは、認知症につながる心配はないのでのでしょうか?
半世紀ほど前に「知的生産の技術」という本が発行されています。カードに情報を記入しておき、それをいろいろな視点から組み合わせ、「新たな知的発見」を行う方法です。
その後、カード型データベースソフトが発売され、そしてSQL型のデータベースソフトになり、多くのデータを蓄積できるようになりました。その結果、多くの情報から「単語検索」が可能となり、いろいろな情報が見つけやすくなり、その見つけた情報を組み合わせ、新たな「気づき」が生まれやすくなりました。
特に日本語は、同じ単語でも、使い方が多様なので、面白い気づきも生まれやすいですね。
出来れば、自分でデータベースを作り、そして、単語検索をし、その情報を組み合わせて遊ぶと、歳をとっても、思考遊びを楽しむことが出来ますよ!
そんなにあれこれ本を読むのは?
学問は大いにやりながら、それにとらわれない!
聞き上手だからこそ耳寄りな情報が入る!
いかなる心境で選ぶか!
固定観念から解放されよう!
「日本にも原人はいた」は捏造だった!
情報化社会になって、デマ(デマゴギーの略:政治的効果をねらって,意図的に流される虚偽の情報。悪宣伝。根拠・確証のないうわさ話。)が増えています。
そのなかには、悪意をもたないまま流した情報が、結果としては悪意に満ちていた、という情報も増えているのでしょう。
最近は、SNSでいかがわしい情報がたくさん流れています。流した本人は、それほどいかがわしいとは思っていないようですが。
むかしの商業の町の中には、「法律は最低限のマナーだ。商人としてのマナーは、もっと上のレベルでなければならない」とされていました。SNSには、まだマナーといったものが出来てきていないようです。その結果、精神的にダメージを受ける人も少なからずいるのでは、と気になります!
知識を理解し、自分なりに使えて!
読書が成長と結びつかない!
睡眠がうまく取れない!
人を助けるのが大好きな人がたくさんいます!
「自由に考える」という習慣を、いつのまにか失っているのでは、と感じています。小学校から「テストで答えは一つ」という習慣がつき、マスコミでは専門家の解説がほとんどになり、専門家達は答えは一つ、と考えがちです。そんな情報ばかりが周りに溢れていると、自分が自由に考えたと想っても、他人の考えに支配されているのでしょう。 日本以外では、「答えは一つ」しか正解がないのですが、日本では「あれも正しい」、「これも正しい」ということが許されています。一人の人が、お寺に行くのも良い、神社に行くのもいい、「曖昧」が許されているのです。 だからこそ、いろいろな知識を自由に集め、その情報を組み合わせ、昨日考えていたことと、今日考えることは、違っても良いという自由があります。 Aさんとは“こう”、Bさんとは“そう”と、それぞれの場面に応じて良い方法が選ぶことがある程度は許されています。 ただし、その自由な対応の背後には、多くの知識があればあるほど、的確な対応になるのでしょう。いくつになっても、自分の得意分野以外の勉強も大事なのでしょうね! |