「自分」というものを持ちながら、「他人を誉める」ことは案外難しいものです。どうしても他人を誉めると、自分がその人より下になるのでは? と、思ってしまうのでしょうか。
プライドというものは、人間以外の動物は持っているのでしょうか?
我々は、人同士に限らず、食べ物でも、住んでいる場所でも、何にでも優劣をつけてしまいます。
本来、生きていくために(生き延びるために)優劣をつけたのでしょうが、その感覚がどんどん広がって、何にでも優劣をつけるようになったのでしょうか?
カテゴリーアーカイブ: 心構え
苦痛と喜びとを自分の味方につけるか!
地獄も極楽も、あの世にいって出会うもの!
欲に振り回されない!
「貧すれば鈍する」ということわざ!
大成功してしまったが、後が怖いなア!
地に足の着かない生活!
一定の形を保って生きていると、そのパターンで売り込みやお願いをされると、ついついOKしやすいようです。この形の多くは、教育でなどつくられるのでしょう。また、宗教などでもつくられるのでしょう。
歴史だけでなく現在でも、国民を従えるために、教育や宗教を利用し、情報統制をして支配しています。
歴史で残されている文献などのほとんどは、勝者側の視点で書かれており、歴史学者は文献を分析し、教育に利用しています。
お寺や神社などが造られた経緯も、立派なことをした、という視点で書かれています。でも、自分が非常な残酷なことをしたきたので、その罪を許してもらうために造営したとは、書かれていません。
小説も、残酷なことをした人でも、英雄扱いで書かれています。そうしないと売れないからでしょう。
ということは、一般的な人は、残酷なことは見たくないし、早く忘れたいのでしょうね。感動できる部分だけ見たいようにパターン化されているのでしょうか?
心の養成には、ぜいたくをしろ!
いざこざは、相手のせいだ、と!
日本には「完璧は災いの元」という文化も!
年齢とともに自分の美学をもつべきだ!
自分を自慢気に語る人はまだまだ未熟!
日本では「本当の美しさは、不完全を心の中で完成した人だけが、見いだすことが出来る」という未完の美学があります。
自らの内的世界に耳を澄ませることができれば、人の意見を素直に聞くことが出来、「完全」ということの危うさに気がつくことが出来ます。
聖徳太子の「十七条憲法」の最後に、「物事は独断で行ってはならない。必ず皆で適切に議論しなくてはならない。(とはいえ)些細な案件に関しては必ずしも皆で議論する必要は無いが、重大な案件については判断に過失・誤りが無いか疑い、慎重にならなくてはいけないので、皆で議論する必要があるし、そうしていれば(自ずと)道理に適った結論を得ることができる。」と、付け加えています。
このとき、既に完成の美学に疑問を抱いていたのですね。テレビに出てくる専門家の意見は意見として、三猿の「見ざる、言わざる、聞かざる」の真逆の、「見てご猿、言うてご猿、聞いてご猿」で、世の中の正しいことを「よく見よう」「よく言おう」「よく聞こう」と、常に自分の未熟さを意識していたいものです!!