いざこざは、相手のせいだ、と!

 いざこざが起きると、「相手が悪い」と考えるのが普通です。なかなか「自分が悪かった」と思えないものです。これは、現在起きているロシアのウクライナ侵略戦争においても同様ですね。ロシアは「相手が悪い」と言い続けています。
 どうしたら、「自分が悪い」と思うようになるのでしょうか? 難しい問題です。
 自分の思い込みのからつくり上げた正義、これは、論理的な思考をする人には、改めることが難しいのでしょう。もっと「いい加減」・「曖昧」を許容し、穏やかな社会であってほしいですね!

日本には「完璧は災いの元」という文化も!

 「無心に何かに取り組む」ということは、思い込みがなく、その状況をありのままに見る事ができる方法です。これはトヨタの改善手法と同じで、現状を残り洩らさず把握することを最優先し、それから対応方法を2つか3つに絞り、比較検討しながら改善していくという方法。
 無心であることが、現状把握において、一番有効な方法です。現状を洩れなく把握した上で、改善に取り組んで行く、それが一番成果につながっていくことになるのでしょう。
 しかし、世間では「朝令暮改」より、「いったん決めたことは、最後までやり抜け」ということが、大事だとされる場合が多いようですね!

年齢とともに自分の美学をもつべきだ!

 老年期になったとき、このときほど視野を広げたいもの。仕事を離れたのですから、新しいもの、違った見方が出来る自由を手に入れたのですから。
 自分が習得してきた知識に執着していると、新しい分野の情報が入らなくなります。いわゆる「頑固(他人の意見を聞こうとせず,かたくなに自分の考えや態度などを守ること)」になります。しかも、忘れることが多くなってくると、より視野が狭くなります。
 自分が手に入れた経験や知識を、いろぴろな人々に提供し、その過程で接する人々から、新しい情報を手に入れることが出来れば、異なった視点が生まれてくるのですが!

自分を自慢気に語る人はまだまだ未熟!

 日本では「本当の美しさは、不完全を心の中で完成した人だけが、見いだすことが出来る」という未完の美学があります。
 自らの内的世界に耳を澄ませることができれば、人の意見を素直に聞くことが出来、「完全」ということの危うさに気がつくことが出来ます。
 聖徳太子の「十七条憲法」の最後に、「物事は独断で行ってはならない。必ず皆で適切に議論しなくてはならない。(とはいえ)些細な案件に関しては必ずしも皆で議論する必要は無いが、重大な案件については判断に過失・誤りが無いか疑い、慎重にならなくてはいけないので、皆で議論する必要があるし、そうしていれば(自ずと)道理に適った結論を得ることができる。」と、付け加えています。
 このとき、既に完成の美学に疑問を抱いていたのですね。テレビに出てくる専門家の意見は意見として、三猿の「見ざる、言わざる、聞かざる」の真逆の、「見てご猿、言うてご猿、聞いてご猿」で、世の中の正しいことを「よく見よう」「よく言おう」「よく聞こう」と、常に自分の未熟さを意識していたいものです!!

悲しみを我慢すれば心の成長に歯止めが!

 泣くことはストレスを和らげます。また、笑うとエネルギーを高めます。このような感情表現を妨げているものに、「思い込み」や「エゴ」があります。これらが感情の表現をさまたげ、ストレスを蓄積していきます。
 「思い込み」の原点には情報や知識があります。自分の既存の知識の範囲でしか、物事を把握できていません。
 ありのまま、残り洩らさず状況の把握をしていれば、感情の表現が充分出来ることにつながるのでしょう!

目下には自分から声をかける!

 本当に立派な方は、腰が低いですね。中途半端に立派な人は、態度が横柄ですね。なぜなのでしょうか。能力がありながら、小心者なのでしょう。自分が他の人より上に立っていると見せつけないと、気が休まらないのでしょう。このような姿は、今も独裁国家のリーダーに見受けられるようです。
 日本の時代劇で「頭が高い」という言葉を聞くことがあります。この場合、地位は上なのですが、人間的には成長していない人の場面が多いようですね!

自分と向き合うのはとても難しい!!

 「冷静に自分と向き合う」というものは、なかなか難しいことです。というより、無理なことと言ってもいいほどですね。
 よりよく見ているか、または、より悪くみているか、のどちらかになりやすいですね。
 そのためか、チェックリストのような方法が開発されたのでしょうね。
 ただ、基本的には「ありのままの自分を受け入れる」ことを前提とし、人になにを言われたとしても、「そうゆう見方もあるのか」と冷静に受け止めることが基本なのでしょうね!

なかなかチャンスがやってこない!

 チャンスは、何かしら行動をしているときに、何かしらの状況の変化が起き、その変化にうまく対応できたとき、チャンスをものにした、ということなのでしょう。
 ただし、チャンスをものにしたと、気がついていない人達もいるようです。
 経験し、学習し、何かしら狙っている人達は、チャンスをものにしたと、気づくのですが、いつも現状の変化を見過ごすことなく、常に変化に対応している人達は、その対応で成功していたとしても、それほどチャンスをものにしたとは思っていないようです。それが日常ですから。
 ただし、数年たって、あとから気がつくのでしょうが!

傷つくことを恐れている人!

 こだわりやすい人は、ガンになりやすい印象があるとのこと。
 仕事に携わっている時代は、どうしても視野が狭くなります。深くはなるのですが、広くはなりません。そして、狭いままリタイヤすると、そこから外れている分野については、まったく興味が湧いてきません。その結果、こだわりがますます強くなっていきやすいですね。
 自然に接している人は、何故かいろいろと興味を持ちやすいようです。自然は多彩ですからね。特に日本では!

自分に失望すると、とにかく非難する!

 「知識」を覚えることは大事ですが、それは「智慧」とは言えないようです。
 「智慧」に至るには、その場の状況を洩れなく把握した上で、関係しそうな知識を寄せ集め、それらを組み合わせ、場合によっては、自分で考え出したものと組み合わせ、実行できるようにした状態までもって行かないと、智慧にはならないのでしょう。大変ですね!

「今どきの若い者は」とこぼしたくなる!

 年齢を重ねるにしたがって、知識や経験は深くなります。ただし、問題があります。年齢を重ねた結果として思考の視野が狭くなることです。興味の範囲が狭くなることです。その結果、範囲外のことについては、興味が持てなくなり、情報があったとしても、それを生かすことが出来なくなってきます。
 情報の更新ができないまま、古くなった経験値の視点で世の中を見ていますので、現代の変化の激しい時代には、なかなかついて行けないことが多くなってきます。
 産業革命、そして、昨今の情報革命についていくのは、今までの発想ではついていけないのです!

あなたには自由な道を歩んでほしい!

 「自由」というものは、住んでいる土地によって違いがあるようです。思いがけない災害がよく起きる地域では、災害が起きたときの助け合いが必要で、当然のこととして周囲の人達に気を使っています。そして、その気遣いを配慮した範囲で「自由」を考えてしまいます。
 自然環境が安定している地域、あるいは、都会のように人工的に環境を制御している地域においての「自由」は、周囲からの助けがそれほど必要ないためか(行政に助けを頼れば良いのか)、自由の幅が広いようです。
 ただ、行政の援助の範囲を超えたときは、どうなるのでしょうか!

「正しさ」とは「自分の都合」にすぎない!

 自分が正しいと子供のときから主張しながら育ちます。しかし、なかなかそれが「自分の都合からくる主張」だとは気がつきません。なぜなのでしょうか?
 これは大人になっても変わりません。ただ、主張の頑固さの程度は風土によって違っているようです。
 日本は自分の主張にそれほど強くこだわっていないようです。それは、災害の多い自然環境から学んで来たのでしょうか。
 台風、地震、津波、火山噴火、干ばつなど、予測がつかない自然災害が多く、なかなか論理的には対応できなかった環境の中で、なんとか対応していかなければいけなかった。その結果、自己主張より、今置かれている環境の中で、何をしなければならないか、という命題の中で生き続けてきた結果なのでしょう。
 ただ、日本でも都会暮らしの人達は、どちらかというと自己主張が強いようです。これも自然環境の違いなのでしょうね!

強く穏やかに生きていこう!

 強く穏やかに生きていくことを目指すこと。出来ると良いのですが、これを自分の論理だけで実現することは大変なことです。
 日本の風土は、出来損ないを認め、曖昧に生きることを認める風土があります。この風土を無視し、自分の考え方しか認めない時代は、日本においては戦いに明け暮れた時代ですね。 
 現存する日本最古の国が編集した「日本書紀」ですら、朝廷の成立はAが正統だが、Bもある、Cもある,Dもある,というように、国家が、曖昧さを許容しています。そんな国は世界中どこにもないようです。
 日本書紀より古い聖徳太子の十七条憲法の最後の17条目には「物事は独断で行ってはならない。必ず皆で適切に議論しなくてはならない。とくに重大な案件については判断に過失・誤りが無いか疑い、慎重にならなくてはいけないので、皆で議論する必要があるし、そうしていれば(自ずと)道理に適った結論を得ることができる。」と、もとになった中国のものにつけ加えています。
 自分の論理では補えない世界があることを、大昔から感じていたのですね!

生活の快適さはなかなか放棄できない!

 私たちは「豊かさ」を経済感覚で捉えています。お金至上主義です。それが正解なのでしょう。
 ただ、その傍らに「親切」は置いておきたいですね。心の豊かさにつながるかも知れないので。
 いろいろな食べ物を、物々交換で手に入れることができた時代、あるいは、それが今でもできる地域では、心豊かな暮らしを、そのことに気づかずにしているのでしょうね。
 ただ、地球の人口が50年で二倍以上になっているので、そんなことは言っていられないのでしょう!

自分なりの人生哲学を身につけること!

 人生百年と言われ出しています。「自分という個業」を設計しなければならない時代になったようです。
 能力が重視される時代ですが、この能力はお金に関わる能力のこと。お金に関係ない能力は、現役時代は評価されません。
 たとえ、オリンピック選手であっても、その競技の監督やコーチになることが出来なければ、その能力は評価されません。
 しかし人生百年、お金に関わらない時間も長くなっています。自分のお金に関わらない能力も、日ごろから磨きをかけておく必要がありますね!

知識は「広く」から、そして「深く」へ、そして「広く」へ!

 今はスペシャリストを目指す方が多いように感じます。それだけでは片寄った思考になりやすいですね。
 いくつかの専門分野を身につけた上で、雑学に手を染め、そして、状況を洩れなく把握した上で判断するゼネラリストを目指してほしいものです。
 知識は、現状に即した上で、バランス良く利用できると、大きな力を発揮できるものではないでしょうか。そのためには幅広い知識が必要ですが、実際に行うには難しいことですけど!

イライラの原因は何か?

 現代はストレス社会ちっても言い時代になっています。SNSなどで簡単に情報発信ができるので、ストレスをかかえている人は、批判情報を簡単に発信できますね。また、マスコミですら批判情報を発信ることがあるので、「批判上を発信しても良いのだ」と思ってしまいます。
 修行して「どう思われてもなんでもない」という境地にたどり着けると、周囲に対して、やさしく親切な行動が、何気なく出来るようになるのでしょうね!

熱くならないと行動できない!

 「一歩踏み出す」は、出来るようで出来にくいもの。失敗の経験、あるいは失敗とは言えないものの、誉めてもらえなかったことを長く経験していると、やはり一歩踏み出すことは出来ないものです。
 また一方で、踏み出しすぎると、これも厄介なもの。そうなると穏やかな日々を送りたくなるものです。
 いろいろあっても良いのですが、「社会」という環境の中で生きて行くには、その社会の風土(価値観)に合わす必要も出てきますね。そうなると、いろいろな主張が出てきしまいますね。そして、力がある主張に会わさざるを得なくなってきますね!

自然の感情を大切にしているか!

 「自分であれ、他人であれ『気持ち』の理解は、言葉ではできない」と、もと京都大学の学長でゴリラの研究をされていた方が言っておられました。この方はゴリラの集団と一緒に生活をした体験があり、その中で気がついたそうです。
 ゴリラとの気持ちのやりとりができるようになり、その体験をもとに人間社会を見たとき、「言葉」というものは気持ちを正確には伝えていないことが多く、自分が置かれた環境の中で、自分の都合が良いように話しており、本来の自分の気持ちは表現できないもののようです。
 言葉だけで自分の気持ちを考えるようになると、同じように自分の気持ちを正確に捉えられなくなってしまう可能性がありますね。
 やはり、自然の中でいろいろな感覚を磨き、その感覚を大事にしながら「気持ち」というものを摑んでいく必要があるのでしょうね!