人の足を引っぱると、自分もまた同じ運命に見舞われる!

 SNSで情報発信が簡単にできるようになると、悪口も増えてきます。
 小さいときから過保護の環境で勉強ばかりし、自然の中で遊ぶことがないと、自分が置かれている状況を正しく理解しようとせず、勉強で得た知識だけで判断してしまいます。
 勉強で得た知識が正しいとしか考えない人は、SNSで発信された情報も、正しいものとして受け取ってしまうのでしょうか?
 歴史など見ていると、権力者に沿った情報だけが重要視され、権力を失った人達の良い情報は、廃棄されるか、無視されます。そして、権力者に沿った情報だけが残ってしまい、教科書ではそれが正しいと教わっているようです!

人々は損になるような人とはつき合わない!

 いつの世でも、何かしらの「得」が人間関係をつくっていたようです。
 金銭関係の得だけでなく、知識・智慧などによる得、助けを受ける得などいろいろ得はありますが、得を受ける側はもちろん、得を与える側も精神的な満足感による得を受けます。
 義理・人情も得の一つなのでしょう!

旧暦の10月10日(新暦では11月頃)の出雲大社の「神在祭」

 今までは、神さま・仏さまの「願い事」をしていましたが、これからの願い事は「生成AI」になってしまうのでしょうか?
 「神頼み」は、実現しなくても、「しょうがない、自分の責任だ!」で済ますことが出来ますが、生成AIでは、どのようになるのでしょうか?
 生成AIでも、自分の責任と考えることが出来るのでしょうか、異常な犯罪が増えている現在、心配ですね!

水まわりのおそうじをすると!

“ 「水」は銭運を高める効果があるとされています。鎌倉の「銭洗弁天宇賀福神社」にお参りし、湧き水でお金を洗う方は今でも沢山おられます。
 銭洗弁天の湧き水でお金を洗う歴史は、伝説によれば、鎌倉幕府の五代執権北条時頼が宇賀福神社に参詣して、湧水で銭を洗って福銭にしたのがその起こりだといわれています。
 それはともかく、家事ほ多くは「水」を使います。ご主人が家事を分担すると、家が和やかになることは確かですね!”

何気なく暮らして見つける小さな幸せ!

 幸福な生活をしていると、それほど幸せを感じなくなるようです。
 少し辛い生活の中では、「小さな幸せ」を見つけられるようです。環境に敏感になっているのでしょうか?
 日本の歴史の中で、小さな幸せを感じていた時代はどの時代なのでしょうか?
 俳句が盛んな時代は、日常の小さな自然に目を向けることが多かったのでしょうね。
 そう言えば、比較的農業が安定し、江戸に近い街の方が、俳句を刻んだ碑を見掛けることが多いですね!

老後の生活費をどうするか?

“ 新NISAが始まりました。これは「老後の生活は自分で準備しろ」ということなのでしょう。
 若いうちから、自分のためにお金を貯める、これは、何パーセントの人が実行するでしょうか? 出来ない人は生活保護を受ける生活になるのでしょうか?
 人口減少が始まっている現在、若いうちから老後の準備をする、ということになると、「子供のことなど考えてはいられないので、結婚しない」という人が、増えてこないのでしょうか? 
 年金がある程度充分な戦後の昭和の時代は、子供がある程度いました。これからどんな時代が来るのでしょうか、良いほうに向かうとよいのですが!”

「非日常」というもの!

 非日常的な行事は、気分転換になります。「まつり」もそうですが、「豆まき」など決まった日に行う行事もあります。また、結婚式のような行事もあります。
 人間が気分転換を求めたのは何故でしょうか?
 おそらく、人間が地上を歩くようになってからは、木の上になる果物を手に入れることが困難になり、その果物を手に入れたとき、気分が高揚し、あるいは、気分転換になったのでしょう。そのようなことが切っ掛けで、いろいろな行事が生まれた可能性も、少しはあるのでしょうね!

思春期は、見た目に最も関心を払う時期!

 若者は多様性を持っています。と同時に、その多様性を絞り込もうとしています。ただ、その絞り込みは「見た目」が中心になっているようです。
 芸術家で、若くして命をなくした人達は、行き過ぎた見た目の絞り込みが原因だ、と思える人もいます。
 生成AIのしくみが、若者の深みのある思考に、つながっていくと良いのですが!
 

ほめるときはすぐほめる!

 ビックモーターの事件で、叱り方が問題になっています。子供時代に叱られた経験からなのでしょうか?
 叱るという場面は、(目下の者に対して)相手のよくない言動をとがめて,強い態度で責める、ということですが、叱ったその先を考えて叱るのが理想なのでしょう。
 自分の子供時代の経験から叱るのか、塾考して叱るのか、その人の器が出ますね。
 叱ることを考えるより、ほめることを考えた方が、気持ちは楽なのですが、難しいですね!

他人の不幸は蜜の味!

 市川猿之助容疑者「心中事件」発端の週刊誌や、ガーシー容疑者の投稿動画は、『他人の不幸は蜜の味』が基本になっています。このような「蜜」が大きなお金になると、止められなくなるのでしょうね。
 週刊誌の版元やネットサービスの提供者は、その蜜の味を覚えると、歯止めなど、どうでもよくなってしまうのでしょうね。
 以前に比べ、はるかに情報発信が容易になった今、法律に頼らない歯止めが、社会にできるとよいのですが!

これからは江戸時代以来のおけいこごとのブームが!

 「教育は投資」という状況が、少しづつ緩和されてくるようです。しかし、それが充実した人生づくりに、どの程度役立つのかは不明です。
 生成AIが進化・普及すると、知識を持っているだけでは、仕事上の優位とは言い切れない場面も増えてくるのでしょう。
 しかし、お稽古ごとは、人生を豊かにするものです。自分自身を豊かにするだけでなく、いろいろな人とのつながりも増えててきます。
 長寿社会を考えたとき、充実した人生を長く手に入れるためにも、「お稽古ごと」は大切ですね!

プログの写真選びは自分で選ばない!

 「自分のことは、自分が一番よく知っている」と思いがちですが、集団の中では、これは通用しません。
 社会の中で生活する、ということは、他人の評価の中で生活するということ。それに気づき、それが負担になってしまうと、「とじこもり」になってしまうのでしょうか?
 しかし、社会には多様な価値観があります。特に日本は歴史的に多様な価値観を受け入れてきました。神様も仏様も両立してきました。「多様さ=曖昧さ」が受け入れられてきました。
 昨今は、ネット検索でAIが利用されるようになり、多様さが除外されがちになってきました。自分で日本語のデータベースをつくり、単語検索すると、日本語の多様さに気づきます。
 欧米文化の影響力が強くなり、考え方に多様性(曖昧さ)を失うと、プーチンさんやトランプさんのような人が、受け入れられるようになるのでしょうか!

その場対応のウソはつかない方が賢明!

 なぜウソをつくのでしょうか?
 最近の技術の進化で。だれもがスマホやドライブレコーダーで簡単に記録を残しています。
 そのデータをネットに上げることも出来ます。また、報道機関に提供も出来ます。
 むかしに比べ、ウソがばれる環境が整っています。それにもかかわらず、「自分のウソは、バレない」という感覚は、むかしのままのようです。
 環境の変化にともなった感覚を、身につけるのは、なかなか難しいことのようですね!

「私の自由」「相手の自由」を認め合うこと!

 むかしに比べれば、「ありがとう」という言葉をよく聞きます。むかしは、それぞれの土地の風土に特徴があり、古くからの港町で商人の町のように、外からの人の出入りが多いところは、「ありがとう」というような感謝の言葉をたくさん使っていたようです。
 「感謝の言葉」や「やさしく褒める言葉」は、「自分というもの」がある程度出来上がっていないと、難しいのかも知れないですね!

みずからの高ぶりをコントロール!

 ネット社会になり、「ひと言多い」場面をよく目にするようになりました。その影響かテレビでもよく目にします。
 自分にブレーキをかけることができない人が増えているようです。
 これは核家族が増加した影響なのでしょうか。「気を使う」あるいは「我慢する」ということが、日常の生活で少なくなったためでしょうね。
 大家族ですと、いろいろと気遣いが必要なため、その環境で生活すると「自分をコントロール」する力がつくのでしょうね!

集中しておしゃべりしたあとは気が緩むもの!

 SNSなどでの情報交換が増えています。しかし、そこでは文字情報だけです。しかし、文字情報だけでは限界があります。その限界を感じ、乗り越えるために、絵文字がつくられました。
 日本語は、英語と違って、文字情報だけでは不十分です。言葉では「イヤ」と言いながら、その表情は{イエス」の場合もよくあります。
 英語を日本語に訳すのは比較的楽ですが、日本語を英語に訳すには、場面によってはかなり難しいですね。
 幼い時から英語教育をすると、複雑な日本の風土の理解が、難しくなることはないのでしょうか?

「ホンネ」か、「タテマエ」か、まず疑ってかかる!

 ホンネ=本音(本当の音色)は、三味線や琴、太鼓などの日本の楽器、あるいは、演歌は、西洋の楽器や音楽のように倍音だけで構成されてはいません。音のゆらせ方が特殊なようです。
 その影響かどうかはわかりませんが、世間では「ホンネ」と「タテマエ」の両方が通用しています。そのような社会では、「ホンネ」を知った上で、「タテマエ」で対応していくことが大事なようです!

他人からバカにされたくない!

 誰でも、他人からバカにされることはつらいもの。それが、小学校から「いじめ」というかたちで起きているようです。
 その基本に、優劣をつけることがあるのですが、昨今の情報化社会では、その「劣」情報が拡散してしまいます。
 小学校から始まるテストや通知表により、優劣評価の中で育っています。しかも、ヒトの能力の内の一部だけ取り上げて、しかも、それが全てのような評価をしてきました。
 いつの間にか、人を含めたものごとを、優劣をつけないで、ありのまま観察する能力が、身につかなくなっているのでしょうね!

“ひと言多い”は命とり!

 自分を認めて貰いたいという思いが叶っていないと、「一言多い」ことになりやすいようです。世間は「そんなもんだ」と築けば、人の評価などはそれほど気にならなくなるのですが。
 また、他人の良さに目が行くようになると、一言が「ほめ言葉」になるのですが。
 しかし、どうしても他人の悪いところに目がいってしまいますね!

財産より大切なものがある、理解出来るか!

 世間では「財産より大事なものがある」という意識は、少しはあるものの、現実としては、お金に頼ることが必要ですね。自給自足ができている人は、お金にそれほど頼らないのでしょうね。
 テレビ番組の「ポツンと一軒家」を見ていると、純粋に生活を楽しんでいるような印象を受けます。江戸時代のように、村人達が、協力し合い、余裕をつくり、その時間を楽しむ、といった生活は、人間にとって、平和で先進的な生活スタイルだったのでしょうね!