「あれもこれも」は、どれも、どっちつかず!

 「あれも、これも」やらなくては、という状態になってしまうと、頭がいっぱいになり、手が動かなくなることがありますね。
 せも、何かしらに手を出しましょう。何かしらのアイデアが浮かび、なんとかなっていくことが多いようです。
 手を動かしましょう!

尾道 寄進された五百羅漢像「天寧寺」

  五百羅漢の群像(500体+28体)の羅漢像があります。 羅漢は正式には阿羅漢(あらかん)といい、サンスクリット語のアルハンを音写した言葉です。元来インドでは尊敬に値する人という意味で、仏教では、悟りを開いた修行者という意味です。羅漢には釈迦の十大弟子や、釈迦からこの世にとどまり仏法を護るように命じられた十六羅漢、釈迦の入滅後に行われた第一回結集(けつじゅう)(経典の編集会議)で集まった五百羅漢などが含まれます。

地球科学では「過去は未来を解く鍵」と!

“ 大地震は地中に棲む大ナマズが暴れるために引き起こされると。
 地球科学では「過去は未来を解く鍵」とされています。
 日本は歴史を大切にし、過去を引き継いできた国です。
 しかし、地震の災害は、為政者にとっては都合が悪いためか、民間には「言い伝え」や「石碑」などが残っていますが、為政者側には、復興などの政策の資料中心のようです!”

相模原 江戸時代には寺子屋も開かれていた「常福寺」

 1316正和5年、文章博士などを務めた菅原長員が、その祖父菅原長貞の供養のため、鎌倉建長寺より本覚了堂禅師を招き開山した。
 その後、一時衰微したものを信濃の国出身の玉叟珍(1563年没)が中興したと伝えられている。 開山以来代々知識人として知られた菅原氏と縁が深く、1584年の北条氏直の版物状や、鎌倉仏師として知られる後藤四郎兵衛藤原義貴の作による地蔵菩薩立像などが残されている。
 開基の菅原長員は文章博士(もんじょうはかせ)ですが、文章博士は728年(神亀55年)に初めて1人が置かれた教職に従事する官吏。
 834年(承和1年)には制度が変わり、文章博士の定員が2名となり東宮(とうぐう)学士、大外記(だいげき)を兼ねるようにもなり、そのころから菅原(すがわら)、大江の両氏がその地位を世襲するようになりました。

何が正しいのか判断に迷ったとき!

 何が正しいのか判断するとき、生成AIに頼る時代になるのでしょうか?
 昨今の知識優先教育に馴れた人達は、おそらく、生成AIが導き出した情報で結論を出すことになるのでしょうね。
 ただ、生成AIがどのようにして結論を出しているのか、その課程は体験しておく必要があると思うのですが!

鎌倉 一時は約3,000坪の境内だった「薬王寺」

 薬王寺の釈迦堂の裏に、大きなやぐらがあります。不思議なことに、このやぐら内の地面に直接置いた石像は、どんな材質のものでもだんだんとけていくのだそうです。現在、やぐらの入口近くに4体の石像が並んでいますが、どれも像の輪郭がわからないくらいにとけています。このあたりは海底が隆起(りゅうき)したところなので、塩分の影響が大きいのではないかと考えられています。

世界はいま危機に瀕しています!

 戦争、温暖化による気候変動で、世界は危機に瀕しています。
 人間の英知というもので乗り切れるものなのでしょうか?
 世界の指導者達は、自国のことしか考えない人が多いようです。その人達に「人類の叡智」を求めても致し方ないように思ってしまいます。
 まだ人類は、「適切な指導者を選ぶ方法」を思いついていないようですね!

尾道 天保大飢聾に本堂立替で人を救った「慈観寺」

 1348年に慈観上人が開いた時宗寺院。1622年に栗原(尾道西部)の世計橋付近より現在地に移ったとされている。本尊は、阿弥陀如来で、宗派は時宗一遍上人、本山は神奈川県藤沢遊行寺である。
 江戸時代、天保の大飢饉の際、尾道地方にも困窮の難民が多く出たが、当時の町年寄橋本・竹下は、その救済事業として本堂の改築を発願し、1834年工を起し1837年竣工したのが現在の本堂である。竹下はこの工事に難民を人夫として雇用し、尾道では一人の餓死者も出さなかった。

ガンは、食生活が欧米化するとともに変化したと!

 ガンは、食事の内容で変わるようです。日本では、食事の内容が欧米化すると同時に、運送方法の進歩で地産地消が少なくなり、また、冷蔵庫の普及で、冷凍技術の進歩で、食事の内容が大きく変わってしまいました。
 そのため、発生するガンの場所(部位)も変わっています。
 ガン細胞の増殖力の変化はわかりませんが、何かしらの変化もあるのでしょうね!

鎌倉 四季の花が楽しめる「長谷寺」

 輪蔵の内部
 輪蔵は観音御縁日(毎月18日)、正月三が日、4月8日(灌仏会)、8月10日(四萬六阡日)のみ回すことができます。
 経典が入った回転式書架をまわすとすべてのお経を読んだことになるとか。

 寺の縁起によると、霊夢を得た徳道上人が721年に大和(奈良県)の初瀬で1本の楠から2体の像を造り、1体を奈良の長谷寺に、もう1体は縁ある土地で民衆を救ってくれるようにと祈り海に流しました。
 その16年後、三浦半島の長井の浜の漂着したものを現在の地に移し、長谷寺は創建されました。
 むかしは、奈良初瀬の長谷寺に対して新長谷寺とよばれていいました。奈良の長谷寺は真言宗豊山派の総本山で、この長谷寺とは宗派としてのつながりはありません。

パワーハラスメントへの対応は?

 パワハラ(パワー・ハラスメント)は、脳の構造に原点があるようです。
 基本的には、男女の脳の構造に違いがあり(もちろん女性でも、男性脳に近い人もいれば、その逆もありますが)、男性脳に多いようです。
 ということは、相手の「脳の構造を直す」ことはできないので、こちら側の対応を変えるか、社会的な対策をするしかないのでしょう。
 まず、しょうがないので、こちら側の対応を工夫してみましょう!

尾道 山火事を猿が里人に知らせた「山脇神社」

 祭神は大山津美之神(おおやまつみのかみ)山の神とも云う、神仏混淆の影響でむしろ山王大権現として親しまれています。また、かっては榎の大樹があり、榎神社とも称されました。
 祭日は、祭神が猿を神使いとするとこらから、旧暦四月の中の日であったのですが、戦後しばらくして、その日に近い五月半端の土曜日を当てるようになりました。
 興味深いのは、狛犬に変えて猿の石像、そして、拝殿の四隅(稚児棟)にも、それが見えます(現在は正面の二ヶ所)。最近、更に、備前焼の猿像の寄進が加わり、また、猿の絵馬がかかるようになり、まるで猿づくしの気配なのですが、先述の如く、この祭神が猿を従使とする特色を持ったことからきた庶民の機知の反映でもあるのでしょう。

熱中症は、ミトコンドリアが機能不全に陥るから!

 「熱中症」は、ミトコンドリアが機能不全になるためだ宋です。
 ミトコンドリアは、細胞の中の小器官で、酸素を使って生きるのに不可欠な「エネルギー」をつくり出す、発電所のようなものです。
 このミトコンドリアは、温度変化に対する適応力が低く、すぐ機能不全になってしまうようです。
 夏には、汗やクーラーで温度を低く保ち、冬は衣服や暖房で、体温を適温に保っていますね!

厚木 日蓮上人配流のとき逗留した「妙純寺」

 この地は、鎌倉時代に依知郷一帯を支配していたされる土豪の本間六郎左衛門重連の代官屋敷があったといわれる場所である。 妙純寺に伝わる縁起によると、鎌倉時代末期の文永8年(1271)9月に幕府の迫害を受けた日蓮上人が、佐渡に流される際に本間屋敷に数日滞在して「星下りの奇瑞」を現したという伝説が残されている。
 日蓮が書いたとされる「種種御振舞御書」に相模の依智の本間六郎重連の館で、日蓮が月天に苦言をいうと「天から明星のような大星がおりてきて梅の木にかかった」とあります。
 「星下り」伝説を伝える寺院は三つありますが、これらの寺が建っている場所はかって本間氏が館や屋敷を構えていた所といわれています。あえて特定するよりも謎のままでもよいのでは!

「雷が鳴れば梅雨が明ける」といわれるが、そうでもない!

“ 気候変動が激しくなった昨今、梅雨の時期は変化するのでしょうか?
 近頃の変化は、特定の場所の集中豪雨、土砂崩れが各地で起きています。
 酸性雨の影響か、花崗岩の岩も劣化しているように見え、崩れやすくなっているように感じます。
 昨今は、住宅地の開発で、山を削って広い道路を造り、元傾斜地に住宅がたくさんあります。
 幅の広い道路は、斜面を大きく削るので、よけいに崩れやすくなるのでしょうね!”

鎌倉 開山は空海と伝えられる「浄泉寺」

 以前は、山門も本堂も、江ノ電の線路の方を向いて建っていましたが、1955年(昭和30年)に国道134号線が造られた際に現在の位置に移されました。国道の工事中の1954年(昭和29年)に、浄泉寺墓地の南側と小動神社境内から、開元通宝(かいげんつうほう)・治平(じへい)通宝・政和(せいわ)通宝・洪武(こうぶ)通宝その他、宋(そう)や明(みん)の古銭が1000枚以上、約60kgも出土しました。

江戸時代の「士農工商」という身分制度!

 日本での身分制度はいつ頃からゆるやかになっていたのでしょうか?
 江戸時代の「士農工商」は、以前は身分制度とされていましたが、現在では、「いろいろな職業の人」と解釈されているようです。ということは、職業の違いはあったが、身分制度ではなかったようです。ただ、賤民と言われる身分はかなり最近まであったようです!

尾道 本来の本堂がない「宝土寺」

 開基は融海意観が1345~1349年の頃に開いたと伝えている。本尊は阿弥陀如来。1489年の古い記録には、「大日本備後御調群栗原保尾道之浦御所崎宝土寺之を」と記している。
 本堂の建物はありません。その代わり、空間的にはのんびりしています。
 このお寺さんは本来の本堂がない(敷地のみ)。
 かわいそうなことに本堂の建設資金がたまったとき、明治になり藩札が使用不可になり、価値がなくなってしまった。そのため、本堂を建てることができなくなってしまった、とか。

くつろいだ場での働きかけが、つきあいを長くする!

 「くつろぎ」の場があると、脳もリラックスします。
 昔は、仕事が終わると飲み屋に行く、ということが普通でした。いまも在るようですが、昔よりは少ないようです。
 スマホやパソコンで、大量の情報に触れていると、なかなか「くつろぎの場」を持てないですね。
 もちろんSNSにも、「ほっとする」画像などもあるのですが、広告が多く、頭は休まりませんね!

福山 鞆 「こがらっさん」の愛称の「小烏神社」

小烏の森つわ者どものときの声

 小烏神社は南北朝時代の古戦場としても知られています。
 1349(庄平4)年、足利尊氏の弟・直義の義子であった直冬は、中国(長門)探題として鞆の浦の大可島城に赴任していましたが、ちょうどその頃、高師直(こうのもろなお)と直義が対立。のち、直義が高師直によって追われたことを知った直冬は、高師直・尊氏と兵馬を交えることになります(小烏の合戦)。
 その骨肉相食む合戦の結果、鞆の浦の刀剣鍛冶が発達したのです。

 隣の港まち尾道の浄土寺に、足利尊氏と後醍醐天皇の書状が残っており、この辺りの支配権を争っていたようです。