「失敗」を財産にできるか、それともストレスになるか、この違いはどこにあるのでしょうか?
これは「観察力」が関係しているのでしょうか。
「都会暮らし」や「核家族生活」では、一定のパターンで育つようになってしまい、観察力のパターンが少なくなり、そのパターンから外れてしまうと、詳細な観察ができなくなってしまうのでしょうか。
すると、ストレスがどんどん強くなってしまうこともあり得ますね!
12月 2024のアーカイブ
尾道 日比崎中学校の裏山に「竜王山の石仏群」
この竜王山は広島県尾道市日比崎町にある山で標高144.6mです。(尾道市には「竜王山」という名前の山が5つもあります。)
竜王山は、四国の石鎚山を信仰する人々の修験道場でした。竜王山の霊場の石垣の上には石造りの石鎚社があり、その周りには石鎚権現や修験道に関わる石仏などが数十体、林立しています。石鎚山は役行者が開いた神仏習合の修験の道場で、石鎚権現として全国で信仰を集めていました。
竜王山の五大明王は浮き彫り像で、不動明王は上部を浅い山型にした板状の石材を使い半肉彫りです。他の明王は船型の半肉彫りです。降三世明王は大自在天とその妃、烏摩を踏みつけて立つ三面八臂像で、軍荼利明王は一面十臂像、金剛夜叉明王は三面八臂像で、それぞれ火焔光背を負うています。細部まで丁寧に彫られた明王像で、大威徳明王は不動明王と降三世明王の後ろに隠れるように置かれています。
人生にはさまざまな季節がある!
ある程度年齢を重ねてくると、心が冬になるときもありますね。
幾つになっても、なにかしら新しいことに取り組む、という気持ちを持ち続けることができれば、充実した人生になるのでしょうが、なかなか難しいようです。
いままでの経験をムダにすることなく、プラスαができれば良いのですが、いままでの経験にしがみついていると、かえって視野が狭くなりやすいようです。
年齢を重ね、冬の時代になっても、澄み切った冬の夜空を見上げ、新しい星を見つけられると好いですね!
厚木 戦国毛利氏の祖 季光ゆかりの「光福寺」
最初は浄土宗で教念寺と称したが、後に廃絶して光福寺となった。
鎌倉幕府の頃の創建で、開山は隆寛律師。律師(1148~1227)、字は皆空(また道空)無我)は以前は天台宗だったが、後に法然上人の浄土宗に移り念仏を説いて継承、法然上人入寂(1212)の祭は五十七日の同士をつとめた。が、比叡山の宗徒の反発“念仏宗の集団化をおそれての弾圧”を受けて、安貞元年(1227)に流罪に処せられた。
毛利庄(今の厚木市内)の領主毛利季光(すえみつ)入道西阿は送領使となったが、隆寛に帰依きえし奥州喜多方へ送る途中、毛利庄に移し飯山の郷に匿かくまい住ませたという。身代わりには弟子・実成じつじょうという僧が送られるが、入寂を知って飯山に駆けつけ、隆寛律師遺骨を喜多方・願成寺に分骨・埋葬した。
自分の人生は自分で決めなくてはならない!
「考える」という作業は、子供時代から、年寄りまで、続けていかなければいけないこと、ですね。
小学校から、記憶すること中心、社会人になると生成AI中心では、前頭葉が働かず、認知症になってしまいます。
子ども時代は、自然の中で、大人になると、いろいろな情報をデータベース化し、その情報を自分流に組み合わせ、加工して遊ぶことが必要でしょうね。
生成AIを、自分のデータベースを使い、自分でやってみましょう。日本語の単語は、意味が多彩で、思ってもいない情報に出会いますよ!
鎌倉 もとは瑠璃光寺ともいった「寶善院」
宝善院(真言宗大覚寺派)は、加持山霊山寺・泰澄山瑠璃光寺という2つの山号寺号をもち、院号が宝善院。
開山の泰澄は、「越の大徳」(越前(福井)・越中(富山)・越後(新潟)で並ぶ者のいないほどの徳の高い僧)と呼ばれていた。加賀の白山を開いた人物。
江戸時代には、この寺の僧が龍口明神社の別当に任じられたこともある。
村人の信仰を集め栄えたが、明治の神仏分離によって、静かな寺となった。
“越の大徳” 泰澄大師の十一面観音伝説がいきるお寺さん腰越にある真言宗のお寺さんです。腰越の海近くの山裾にあり、とても静かで清々しい空気があります。白山信仰の神の山、白山を開き“越の大徳”といわれた泰澄大師が開いた寺院としても存在感があります。
もとは泰澄山(たいちょうざん)瑠璃光寺(るりこうじ)ともいったと伝えられています。
楽に過ごせば病気と無縁の生活が送れるか?
副交感神経を活発すると、リラックスできてよい。と思ってましたが、からだ的には、必ずしも良いことではないようです。
副交感神経が活発になり、リンパ球が増えすぎると、アレスギーの症状が出やすくなるようです。
適度に緊張し、適度にリラックスする生活が理想のようですが、どの程度にすれば良いのか、難しいですね!
尾道 駅前に海に続く公園「尾道駅前」
1999年(平成11年)に駅前再開発が行われた。駅舎は古い景観を保ったが、そのほかは様相が一変し、近代的な商業施設やホールが建てられた。
現在は、駅を降りすぐに見える尾道水道(瀬戸内海)は以前よりも広くなった。
以前は駅舎の正面に桟橋があり、その西に魚市場があった。
そして、2019年3月10日、新たな二階建の駅舎が開業。
「巷に来れば憩いあり人闘みな吾を慰さめて煩悩滅除を歌ふなり」林芙美子
人が初めて貯蔵したものは「食料」、生き残りの手段です!
昨今「片付け」が注目されるようになっています。豊かな時代の反動なのでしょうか。
人類の「貯蔵する」という性質が、災害や不作になっても、生き残ってきた源泉なのでしょう。
片付けも大切なのですが、温暖化などによる災害に備えた貯蓄も、大切な時期に来ています。
つながりが希薄になってきた現代、自分で貯えておく必要もありますね!
海老名 奈良・平安の昔、相模国を守護「有鹿神社」
市内でも大型の一間社流造の建築です。内部は前後2室に分かれ、前室は正面扉口のほかに両側面にも一本引きの建具を入れることや、向拝の造りなど特徴がある珍しい造りです。また、肘木は鋭い錆を持つ絵様肘木で、社殿に独特の印象を与えています。
建立年代は、虹梁の絵様等の意匠から18世紀中頃と考えられています。
大住郡坪之内村の絵師近藤如水(藤原隆秀)が描いたものです。
如水が諸国遍歴から坪之内村に帰ってきた後の嘉永2年(1849)頃の作と考えられています。
豪快な筆法と精緻な構図で描かれており、見るものを圧倒する迫力があります。
有鹿神社付近一帯が遺跡で、発掘調査で弥生時代から中世の遺物や遺構が確認されています。
出土した平安時代の土師器圷に特殊な文字が墨書されていたことから祭祀が行われていたのではないかと考えられています。
(「自然と歴史のさんぽみち」(海老名市教育委員会発行)より転載)