見返りを期待しないこと!

 豊かになったためか、周囲の人達とのつながりが薄くなってきています。また、ビジネス感覚が広く定着したためか、損得だけで物事を考える人もいます。
 しかし、人とのつながりは大事にしたいですね。それには、相手との直接の損得ではなく、社会全体での損得を考えなければならないのでしょうね。
 話しは違いますが、川の水も綺麗になりすぎて、魚や貝の生活環境に影響が出ています。人間もアレルギー持ちの人が増えています。
 ある一面だけ考えての行動は、思いがけない悪影響をおよぼしていることもあるのでしょうね!

福山 鞆 水軍の拠点だった大可島「圓福寺」

 当寺院の建つ場所は大可島といい、鞆港の入り口に浮かぶ島だった。頂きには海城が築かれており、南北朝時代には北朝・足利幕府軍と南朝・後醍醐天皇軍との合戦の舞台となりました。
 戦国時代には村上水軍の一族がこの海城を拠点にして、海上交通の要所・鞆の浦一帯の海上権を握っていました。
 福島正則が鞆城を築いた慶長年間(1600年頃)に、埋め立てによって大可島が陸続きとなりました。城は廃城となり、慶長15年(1610年)頃に大可島城(たいがしましろ)の跡地に移転し、建造されたと伝えられています。江戸時代は真言宗明王院の末寺となっていました。朝鮮通信使が来日した際には上官が宿泊しました。

傭兵から徴兵制で、国家財政が豊かに!

 徴兵という制度は、戦争にどのような関係があるのでしょうか?
 ナポレオンは、徴兵制を採用し、傭兵より経費を削減し、豊かになった財力を使い、周囲の国々を制圧したとのこと。
 ロシアも傭兵から徴兵に変えているのは、やはり財政的な問題なのでしょうか。
 日本も、かつて徴兵制がありました。健康診断で徴兵の採用ランクを決めていました。その中で、たとえば、身長は当初155cm以上でしたが、兵隊が不足するようになると150cm以上に変えたり、また、年齢の範囲を広げたりしていたようです。
 また、武器については、直接戦争に係わっていない国々は、古くなった武器の処分のため、戦争をしている国に、武器商人を使ったりして、金儲けをしたり、武器の処分費を浮かしたりしているようですね!

鎌倉 女性が人生やり直しの避難だった「東慶寺」

 東慶寺といえば、駆け込み寺とか、縁切り寺とも呼ばれ、女性にはこの上なくありがたい男子禁制の尼寺だった。妻の方から離縁を申し出ることなど許されない封建時代にあって、ここに駆け込めさえすれば、「離婚できる」というのだから、江戸時代、多くの女性がこの尼寺に駆け込んだものもうなずける。江戸末期の150年間には約二千人の女性が駆け込んだともいわれている。江戸時代には女性の自由が極端に制限されていた時代である。そんな時代にこの東慶寺こそ、女性にとって人生をやり直せる稀有な緊急避難場所だった。

いざ悪いことが起こると自分だけが!

 悪いことが起きると。「自分が悪い」と思う人もいます。できれば感情で受けてしまうのではなく、状況を分析するというスタイルで受けることが出来れば、次の対策を前向きにとらえることもできるかも知れません。
 失敗もそうですが、状況や事実は覚えておくのですが、その時の感情は、その時、その場所に、置いてくる方が将来が開けます。
 事実のみは背負っていくのですが、感情は過去に置いていくことが出来れば、前向きな人生になるのでしょうね!

尾道 尾道西部の日比崎にある石仏の山「竜王山」

 この竜王山は広島県尾道市日比崎町にある山で標高144.6mです。(尾道市には「竜王山」という名前の山が5つもあります。)
 そこに、天狗や蔵王権現・不動明王など修験道や密教に関わるの石仏が林立しています。この地も「さびしんぼう」のロケ地となっています。
 竜王山は、四国の石鎚山を信仰する人々の修験道場でした。竜王山の霊場の石垣の上には石造りの石鎚社があり、その周りには石鎚権現や修験道に関わる石仏などが数十体、林立しています。石鎚山は役行者が開いた神仏習合の修験の道場で、石鎚権現として全国で信仰を集めていました。

子どもに親の望む「あるべき姿」を求めると!

 子供の虐待の報道が増えています。親が子育てのやり方を学んでいないようです。これは、核家族の影響があるのでしょうか。
 祖父母や近所の人達が、子育てに多く係わることが少なくなってしまいました。そのため、子育ての歴史的な方法の引き継ぎが出来なくなってしまいました。
 むかしは、子供はもっと自由に遊んでいました。相手の顔(特に目)を傷つけるような遊びはきつく禁じていましたが、それ以外は比較的自由でした。
 子育てにも、人類の歴史的な英知があるのですから、その英知を引き継いで行きたいものです!(学校教育で、特定の方向に誘導する国もあるようですが。)

厚木 多くの石仏が隠れる「金剛寺」

 飯山金剛寺の大師堂に、神仏が八人の翁に化身して現れたという言い伝えがあります。
 最乗寺(南足柄市)の輪番にあたった三田村の清源院の四世忠州は、最乗寺へ向かう途中、この大師堂に立ち寄ってお経を上げていると、「ここで一夜を明かせ」という八人の翁の声がしました。翁達は、退廃しているお堂の再興を依頼して夜明けに帰っていきました。
 八人の翁は・観音様・黒地蔵・白地蔵・白山権現・不動尊・竜蔵権現・熊野権現・稲荷明神とわかり、大師堂は、金剛寺と忠州によって復興されました。
 この忠州が、曹洞宗金剛寺の開祖となります。

アサガオは上から見ると左巻き!

 子供時代、なんとなく他人のことを「左巻き」と言ったことがあるような気がします。
 「左巻き」には、「威勢のよい人」という意味と、「間抜けな人」という意味があるようです。
 その原点は、犬や朝顔などのツル植物の生態が影響しているようです。
 言葉中心の情報化社会になっていますが、言葉というものの原点を、もう一度学ぶ必要もありますね!

鎌倉 神仏分離で名を改めた「小動神社」

 1333年(元弘3年)、新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉攻めをして北条氏を滅ぼしたとき、神社に戦勝を祈願し、成就の後に黄金(こがね)作りの太刀と黄金を寄進したので、それで社殿を再興したと伝えられます。
 その後もたびたび修理や再建が行われました。現在の社殿のうち本殿は、江戸時代の1817年(文化14年)に、腰越全町の人々が協力して建てたものですが、改修されています。また拝殿は、1929年(昭和4年)に建てられたもので、これも改修されています。
 1868年(明治元年)の神仏分離で小動神社と名を改めました。
 また、1909年(明治42年)は村内にあった諏訪社がここに移されたので、建御名方神(たてみなかたのかみ)もいっしょにまつっています。

正直は最大の戦略である!

 ビックモータ-の商売のやり方が問題になっています。
 伝統のある商人の町出身者と、そうでない街の出身者との違いなのでしょうか?
 古くからの商人の町、尾道の商業高校で教わったのは、「法律というものは最低線のマナーだ。商売をやるのなら、もっと上のマナーが大事だ」と教わりました。
 やはり商売というものは、少なくとも100年以上の老舗を目指すことを目標にしないと行けないのでしょうね!

尾道 伽藍配置で最南端部に造営される「熊野神社」

 西国寺山南先端部にある水尾町にある神社です。
 日本最古の伽藍様式の大阪四天王寺の伽藍配置でも最南端部に造営されているのが熊野権現です。
 むかしの西国寺を想像した時、この配置にも何らかの意味があるのでしょうか。

 古く江戸時代から続く水祭りが復活したようです。
 旧水尾町(現久保)に伝わる夏祭りで、水細工人形を陳列し、水尾町の豊かな水源を慶ぶ熊野権現神社の祭祀です。
 からくり人形をで水細工の場面がつくられ、人形の手の先から水が噴水のように吹き出します。

人類の知恵が自然界に対する恐怖心を無くさせた!

 地球は「温暖化」から「沸騰化」なったと、国連から発表されました。この時思い出すのが、地球の歴史は「敗者たちが新しい時代を築いてきた」でした。
 この歴史的な事実は、たとえホモサピエンスでも否定は出来ないのでしょうね。
 あとは、ホモサピエンスの時代を少しだけ長くする努力なのでしょうか?

 でもまだ、少なからずの人達が未開発の地で生活しておられます。この人達は、ホモサピエンスの進化形で生き残っていくのでしょうか?

鎌倉 捨身護法・法華色読の霊地「収玄寺」

 1271年 日蓮聖人の龍口法難の際、日蓮と共に殉死の覚悟を決した第二代執権義時の孫、江間光時の家臣の四条金吾の屋敷跡に金吾の滅後、捨身護法・法華色読の霊地として建立。

 創立当初は収玄庵と称したが大正末期の本堂改築を機に収玄寺と改称した。

 日蓮は、説法で「法華経こそ、仏の真の教えである」ということで、他の宗派を激しく批判したので、反発も強く、他宗を信じる民衆からは石や瓦を投げつけられてしまう。それでも、日蓮はひるむことなく布教活動を続け、確実に信者を増やしていった人。

行動をすればするほど個性的になる!

 情報があふれている現在、自分が行動して、五感で感じ、直接情報を得る。この過程で、「自分」という個性がつくられていくのでしょう。
 Netで、他人が提供する情報をもとに、自分の思考を造っていると、そのような人が多いため、似たように思考する人が多くなり、個性というものがなくなっていきます。
 個性を求めない社会になると、強健な指導者にとっては、統治しやすい社会になるのでしょうね!

福山 鞆 一直線に結ばれた寺町にある「慈徳院」

 慶長年間、芸備両国の大守の福島正則によって、鞆の浦の寺々はほぼ一直線に結ばれ、寺町が形成されました。その寺町筋に位置するお寺のひとつが、この慈徳院です。

 福島正則が大檀越(だいだんおつ/「檀越」とは、仏教を後援する人のことをいいます。仏僧に帰依し、衣・食・住に関してのお布施をしたり、お寺の経営を支えたりします)となり、ご本尊・聖観世音菩薩像を寄進。そして、高僧・松雪得松禅師が開基したと伝えられています。その後、中興の祖・月湛(げったん)亮和尚がご本堂を再建し―。現在でも、境内に美しい緑をたたえながら、鞆の浦の町に静かに佇んでいます。

日本は複雑な人種を混入させながら1つに!

 日本には7世紀ごろまで、渡来する人達を受け入れており、その人達と協力し「日本人」というものをつくってきました。
 「日本は単一民族国家である」は、政治的に同化政策が必要なときに、発信されたようです。
 「曖昧な風土」が許容される日本、7世紀頃までは渡来人が多くいたようです。その人達を含め、協力して、日本文化を、そして、日本人を育ててきました。
 移民しても、自国だけの文化しか許容しない民族もいれば、移民先に馴染もうとする民族もいます。
 食糧事情が許されるのであれば、外国の人達を多く受け入れることも必要ですね!

尾道 江戸時代から続く花火大会「住吉神社」

 毎年旧暦の6月28日前後(2023年は7月29日19:30から)の土曜日、平山奉行の功績を称えると同時に、商売の繁盛と海上交通の安全を願ってをおのみち住吉花火まつりが行われます。

 尾道住吉花火まつりは、正式名称を「住吉神社大祭礼」といい神事です。花火当日に「山型(やまがた)」「鳥居(とりい)」「御弊(ごへい)」の提灯船3隻に加え、「火船(ひぶね)」 「御座船(ござぶね」が渡御(とぎょう)…尾道水道を行ったり来たり…しております。

花火は夏のビッグ・イベント!

 都市部の祭は夏ですね。農作地帯は秋の終わり頃のようです。でも、最近の御祭は、お客さんの中には、自己管理があまりできなくて、安全対策に多くの費用がかかるようです。
 将来も御祭を継続して行くには、どこかで、事故の責任の多くは、お客が責任を持つことにしないと、御祭を続けていけないのでしょうね。
 庶民の文化は、継続していかないと、ロシアのような風土になりかねないですからね!

江の島 たびたび裏山が崖崩れ「延命寺」

「此処は何なのかしら・・・・?」

 たびたびの崖崩れした墓地。墓石も遺骨も誰のものか判らなくなり、それらを祀るためる石窟を造り、納骨堂にしました。
 閻魔大王が鎮座している石窟の奥が納骨堂になっています。

 閻魔大王を筆頭とする十王の信仰は、鎌倉時代に流行した信仰で、死後に人は天国か地獄に行くと信じられていました。天国か地獄かの裁きを司るのが、十王で、裁きは七日ごとに七回行われるので、四十九日目には天国か地獄かが決定します。