鎌倉 江ノ島弁天に恋した五頭龍が鎮座した「龍口寺」

 龍口寺の始まりは、日蓮の弟子の日法(にっぽう)が日蓮が亡くなった後、日蓮宗にとって記念すべきこの地を後世に残すために自分で日蓮の像を刻み、1337年(延元2年)に草庵を建てて安置したことだといわれますが、やはり日蓮の弟子である六老僧(ろくろうそう)が建てたともいわれます。1883年(明治16年)ごろに住職を置くようになるまで、龍口寺には住職を置かず、輪番八ヵ寺といって、近くの八つの寺が順番に龍口寺を守っていました。室町時代のころは龍口院と呼ばれていたようで、龍口寺の名が出てくるのは戦国時代になってからです。

「いただきます」「ごちそうさま」は誰に!

 天の恵み(太陽や雨)、地の惠(水)に感謝することは、ヒトが生き続けてくることができた原点にあります。秘境に生きている人達には、それが今も残っているようです。
 文明の惠を受けてきた人々は、やっと文明が必ずしも「恵ではないのでは?」と疑問を感じ始め、持続可能な開発目標(SDGs)が叫ばれるようになってきています。
 しかし、秘境に生きている人達から見れば、まだまだ中途半端なのでしょう。
 経済発展がヒト属が生き残っていくためのに良いのか、悪いのか、この判断が適正に行われるのか、難しい問題ですね。多数決で決める民主主義社会では、なおさら難しいのでしょう!

福山 鞆 ほぼ一直線に結ばれた寺町にある「慈徳院」

 福島正則が大檀越(だいだんおつ/「檀越」とは、仏教を後援する人のことをいいます。仏僧に帰依し、衣・食・住に関してのお布施をしたり、お寺の経営を支えたりします)となり、ご本尊・聖観世音菩薩像を寄進。そして、高僧・松雪得松禅師が開基したと伝えられています。その後、中興の祖・月湛(げったん)亮和尚がご本堂を再建し―。現在でも、境内に美しい緑をたたえながら、鞆の浦の町に静かに佇んでいます。

パソコンがあったらいいな!

 パソコン用の表計算ソフトが普及し始めたのが1980年代の半ば、ほぼ半世紀前です。当初は分厚いマニュアルがあるだけで、教えてくれるところはほとんどありませんでした。分厚いマニュアルも機能についての説明が中心で、入門書といった内容はありませんでした。でも、それにも良い面がありました。「きっと、プラグラムを作った人は”こう考えるだろう”」という発想で、習得できました。それほど基本的な発想でソフトがつくられていました。しかし現在は、ソフトが何でもできるようになり、思いがけない発想でつくられています。そのためか、プログラムミスもときどき起きてしまいますね!

尾道 ネコ好きに人気の「猫の細道」

 ネコ好きに人気の猫の細道は艮神社の東側から天寧寺三重塔にかけて続く約200mのノスタルジックな細い路地です。
 作られた観光地という感じではなく、自然のままの路地。独特な雰囲気のあるカフェもあります。

グズグズ延ばしから抜け出るコツ!

 気分転換は「手先を動かす」のが良いようです。できれば木や粘土などで何かを作ると、手先を微妙に動かす必要があり、そちらに気が集中します。すると、他のことなど何にも考えなくなります。
 昔は自動機械などなく、指先を微妙に動かすことが多く、精神的には健康だったのでしょう。現代は手先を微妙に動かすことが少なく、頭を使うことが多いので、精神的な病が増えているのでしょうか? そのような状態を防ぐには、指先を使った微妙な作業が必要な趣味は、効果があるのでしょうか?

鎌倉 鎌倉幕府の礎石 三浦大介義明の霊を弔う「来迎寺」

 1194年、源頼朝が鎌倉幕府の礎石となった三浦大介義明の霊を弔うため、真言宗能蔵寺を建立したのがはじまり。
 本堂の右には三浦義明の墓といわれる供養塔と、石橋山の戦いに敗れて三浦に引き返す途中で、平家方の畠山重忠(はたけやましげただ)軍に17歳の若さで殺された三浦一族の多々良良三郎重春(たたらさぶろうしげはる)の墓と伝えられている高さ2mほどの大きな五輪塔2基が並んでいます。

 戦で多くの人が亡くなっていますね。世界には戦に変わるやり方で、権力を手に入れる民族もいます。インド・ナガランド州に、20世紀末近くまで「首狩り族」として名をはせた民族が住んでいます。この民族は、一対一で強者・長者に挑戦し、その首を取ることを名誉とする民族でした。

 この行為をどのように見るか、悲惨なことと見るか、戦に比べればはるかに死者が少ないと見るか。
 第二次世界大戦頃から、基地や軍需工場の攻撃から無差別攻撃に移り、戦いで多くの人が命を落とすことが普通になっていますね! 

ジャガイモ(馬鈴薯)の料理はヨーロッパから!

 アイルランドは全人口の3分の1が食料をジャガイモだけに頼っていた。しかし、1845年から4年間にわたってヨーロッパ全域でジャガイモの疫病が大発生した。その時のアイルランド島は、死者が出ているにもかかわらず食料がアイルランドから輸出されるという状態が続いた。政府の救済措置の対象は、土地を持たない者に制限したため、小作農が救済措置を受けるためにわずかな農地と家を二束三文で売り払う結果となり、これが食糧生産基盤に決定的な打撃を与え、飢餓を長引かせることになった。
 この飢饉で、アイルランド人口の少なくとも20%から25%減少し、10%から20%が島外へ移住した。約100万人が餓死および病死し、主にアメリカ合衆国やカナダへの移住を余儀なくされた。
 このとき米国に移住したアイルランド人のなかにいたのが、後の大統領、ジョン・F・ケネディの曾祖父にあたるパトリック・ケネディでした。
 また、あのウォルトディズニー社を創ったウォルト・ディズニーの曽祖父も、1845年に起きたこのジャガイモ飢饉の折に、米国へ移住した一人だったのです。

厚木 水害に合い現在の地に移された「厚木神社」

 現厚木神社(厚木市厚木町)は、古くは牛頭(ごず)天王社といい、同神社の由緒書(ゆいしょ)には、今から八百年程前の円融天皇の時、天延年中藤原伊尹公により、厚木村字天王免に同社が勧請されたと言います。
 この場所はかっての厚木町役場があった所でしたが、さらにそれ以前は旧幕時代の烏山藩の陣屋が建っていました。
 震災の被害は厚木町と相川村が最も大きかったのです。
 震災の1年後の大正13年9月に建てられた碑の正面には「あゝ九月一日」と彫られています。

上司が部下を信頼して権限を!

 社会においては、多くの人達は仲間よりは上の者(組織では上司)を重視します。多くは利害関係が関係しているようです。もちろん尊敬できる上司の場合もあるのでしょう。
 農耕社会がはじまって、一家が必要とする食料以上に収穫できるようになると、物々交換がはじまりました。そして、より生産性を上げるため栽培技術が上手な人の言うことを聞くことがメリットを生むため、その人に従うようになりました。
 軍も、戦いが強い人に従えばメリットが大きいため、その人に従うようになりました。
 自給自足ができる地域では、経済がそれほど発達していないため、生物本来の姿である「子孫を残す」ということが第一優先です。そのため、生きることの経験が豊富なお年寄りの言うことに従うようです。
 地球環境が大きく変わったとき、自然条件が厳しいところで自給自足をしている人達が、ヒトの生き残りに有利な時代がくるのでしょうか?