ヒト属は200万年前に分化したと言います。その200万年は、自然にいかに適応するかで生存してきました。しかし、二百数十年前からの近代文明から、「自然は征服するもの」とされました。その結果、人類は生物界の王者として君臨しています。この近代は、人類歴史時間にすると2千分の1の時間です。2時間の映画の場合、最後の0.8秒くらいの時間です。人類の歴史鱈考えると、たったわずかの時間で、地球の自然環境を壊し始めているのですね!
9月 2020のアーカイブ
厚木 「星下り寺」とも称される「妙伝寺」
妙傳寺は、文永8年(1271)日蓮上人が鎌倉から佐渡へ配流される際、当地にあったとされる本間六郎左衛門尉重連宅内の観音堂に逗留、月に向かい法楽したところ、邸宅内の梅樹に明星が降臨する奇瑞が顕れたところから、本間六郎左衛門尉重連が帰依しました。
日蓮上人は曼荼羅を授与、弘安元年(1278)には僧日源が草庵を営み、日蓮上人を勧請開山、本間重連・重直兄弟を開基として創建しました。
「星下り寺」とも称されています。
アメリカのハリケーンは台風とはケタが違い!
日本でも、今までにないような大きな台風が、襲ってくる可能性が大きくなってきたようです。アメリカのように、100km以上避難しなければならないと、覚悟する時代になったようです。今後はクルマを買うときは、平常時はテレワーク室、異常気象時はキャンピングカーのように、生活の場になるクルマにしなければならないようです。そういえば、昔は4000ccのクルマでも、キャンピングカー仕様に改造すれば、自動車税が1万数千円という時代もあったのですが、いまはそんな特典はありません。新コロナ時代、避難所が不足しているのですから、特典を復活してもよいのではないのでしょうか!
福山 鞆 恵瓊が住持を務めた「安国寺」
瑞雲山安国寺。元々は、無本覚心(法燈国師)を開山として、1273年に釈迦堂(仏殿)を、翌年に阿弥陀三尊像を造立した『金宝寺』が、備後安国寺の前身です。
その後、室町時代に「安国寺」と改めました。室町時代の末期に同寺は衰退するが、毛利輝元、安国寺 恵瓊が再興し、恵瓊が住持を務めていました。
恵瓊は戦国時代から安土桃山時代にかけての人物で、京都の東福寺と更には安芸と鞆の両安国寺の住持を兼務する臨済宗の僧でありながら、毛利氏三代(毛利元就・隆元・輝元)に仕えた武将としても名を馳せました。
更には豊臣秀吉にも重用され大変な実力者となりましたが、関ヶ原の戦い(1600年)で西軍に与し敗北。後に捕まり死罪となってしまいました。
不安を取り除くことができるのであろうか!
社会の変化が激しくなっていくと、どうしても不安が広がって行きます。おそらく、先々のことを真剣に考える人ほど、不安が大きくなっていくのでしょう。こんなときは、現状の変化を実直に把握し、対応するしかないのでしょう。現状把握が得意になるには、自然の中で遊び回った経験が必要なのでしょう。自然は、多彩で危険なことも潜んでいます。その状況を判断し、「この程度なら大丈夫」という判断を、繰り返し行う必要があります。危険かどうかの判断に、感情を持ち込むことはまずありません。冷静な判断力が身につきます!
鎌倉 元寇戦没者追悼のため創建した「円覚寺」
円覚寺の規模は、1283年には、正式な僧が100人、行者(あんじゃ)・人工が100人、その他の人が68人の合計268人でした。行者・人工とは、禅宗の寺で使われていた人達のことで、寺の様々な仕事をしていました。また、そのとき円覚寺で一年間に使う米の量は約1400石(約210 t)、銭は約1700貫文でした。このほかに寺の領地からは、大豆・まき・炭などが運ばれていました。
1323年、を望が完成し、1334年~1335年に描かれたとみられる「円覚寺境内絵図」によれば、総門・山門・仏殿・法堂などが一直線上に並び、総門と山門との両側には、東司(とうす)(便所)と浴室があり、山門と仏殿の左右には、僧堂と庫裏が並んで中国風に配置されていました。また、このころの塔頭の数は、40を超えていました。
「上から目線」に注意!
「上から目線」はどうして起こるのでしょうか? 人間の欲望は、「財力」・「権力」・「名誉」のようです。江戸時代は、この三つの欲望を分散することで長期政権をつくりました。三つの欲望をの背景に、「知識」や「経験」をもとにし、三つの欲望のどれかを手に入れると、だんだん「上から目線」になり、手に入れた欲望が大きくなるにしたがって、より「上から目線」になるのでしょう。そして真摯な人は「上から目線」から抜け出そうとして、いろいろと工夫し、各種の修行方法が創り出されたのでしょう。欲望から脱出できるひとは多くはないのでしょうが!
尾道 各地の古建築を模した「耕三寺」
耕三寺(こうさんじ)は、尾道市瀬戸田町(生口島)にある仏教寺院です。1936年から伽藍の建立が始められた新しい寺院で、日本各地の古建築を模して建てられた堂塔が建ち並び、「西の日光」「母の寺」とも呼ばれています。小高い山を利用しており、この第二段には、室生寺の五重塔を模した「五重塔、また、四天王寺の金堂を模した「法宝蔵」などがあります。
一目見ると派手なお寺という印象ですが、仏教が伝来したとき、それを広めるため豪華で大きな建物をつくり、人々を仰天させ、朝廷の力を鼓舞した時代はこのようだったのか、と思い巡らすことも出来ます。そういう意味では、歴史を実感する場所でもあるのでしょう。
風水は生活の環境学!
温暖化で自然環境が変化を始めています。自然環境は、その中で暮らす生物全体に影響を与えます。早く環境変化に適応できる生物が、有利になっていくのでしょう。環境の状況(自然・動物・植物・細菌やウイルスも)をよく観察し、変化の状況に合わせ、適応するための方法を模索する生活(人類が生き残ってきた生活)を、もう一度、取り戻す必要があるのでしょう。知識は環境変化が少なければ有効なものですが、環境が大きく変化するときは、状況観察力を伸ばしていく必要があるようです!
鎌倉 頼朝の娘大姫の守本尊を安置する「岩舟地蔵」
頼朝の娘大姫の守本尊という地蔵立像を安置するが、堂の事蹟は不明。江戸中期の作成とみられる加納家蔵『扇谷村絵図』には、現在と同じ場所に「地蔵堂」と注記し、『相模風土記』も「岩船地蔵立像長一尺余と称す」と伝えるだけである。木造地蔵像は、胎内銘札等によると、元禄三年(1691)三橋氏が造立したもの。当時から「右大将頼朝御息女之守本尊」と伝えてた。この像を安置する床下に、約130cmほどの、一石で船形光背を負った石造地蔵像と思えるものがある。「岩船」の呼び名はこれに基づくのであろう。(三浦)
[文献]三浦勝男「鎌倉岩舟地蔵堂」(「神奈川県博物館協会会報」第二九号)