福山 鞆 むかし島だった所に移築「圓福寺」

 当寺院の建つ場所は大可島といい、鞆港の入り口に浮かぶ島だった。頂きには海城が築かれており、南北朝時代には北朝・足利幕府軍と南朝・後醍醐天皇軍との合戦の舞台となりました。
 戦国時代には村上水軍の一族がこの海城を拠点にして、海上交通の要所・鞆の浦一帯の海上権を握っていました。
 福島正則が鞆城を築いた慶長年間(1600年頃)に、埋め立てによって大可島が陸続きとなりました。城は廃城となり、慶長15年(1610年)頃に大可島城(たいがしましろ)の跡地に移転し、建造されたと伝えられています。江戸時代は真言宗明王院の末寺となっていました。朝鮮通信使が来日した際には上官が宿泊しました。

鳥肌が立つのはどうして!

 「鳥肌が立つ」とは、寒さや恐怖・興奮などの強い刺激によって、鳥肌が生ずる。総毛立つ。肌に粟を生ずる、とのこと。「身の毛がよだつ」とは、寒さ・恐怖あるいは異常な緊張のため、体じゅうの毛がさかだつ、とのこと。同じなのでしょうか? 最近の都会に住む若者の多くは、「鳥肌が立つ」、「身の毛がよだつ」といった経験があるのでしょうか。安全な環境をつくっておかないと、裁判の判決で多額の賠償金を支払う時代、過剰な安全志向になってしまい、「鳥肌が立つ」、「身の毛がよだつ」経験がなくなってしまいました。その結果でしょうか、今回の新コロナで都会に出入りした若者が多く感染しています。身の守り方、生き残りの仕方、を自分で対応することができなくなってしまったのでしょうか!

尾道 市立美術館から 千光寺への途中に「鼓岩」

【民話 鼓岩とお姫様】
 戦国の世、千光寺山には木梨山城主(木ノ庄町)杉原氏の出城「権現山城」がありました。城にすぐ近い南の山道にある大岩は、お姫さまや、若君のこの上ない遊び場でした。大岩は、優しい奥方さまやお姫さまが大好きで、お城から聞こえてくる琴や鼓の音に、うっとりと聞きほれていました。
 コロコロ  コロコロ  コロリンシャン、
 ポン  ポンポン  ポン  ポンポン
 大岩は毎日が宴のように楽しい気分でした。
 特に、大岩は、毎日が宴のように楽しい気分でした。特に、ポンポンポンと軽やかな鼓の音に、心が弾みます。

「存在感」は赤ちゃん時代の母親とのスキンシップ!

 人の性格は、幼少期の母親との関係や、育った地域の風土が大きく影響するようです。育った地域の近所の大人達が、両親や子供達にどのように接する風土かで、それを見て育っていく子供達は、社会との関係の作り方を学んでいきます。その体験が生きてくるのは、知的に大人になる25歳くらいからでしょうか。青年期には、一度はそれまでの体験に反抗する時期もあるのでしょうが、ほんとうの大人になっていくようになると、その性格は、母親(両親)や地域風土の影響がでるようになると思われます!

鎌倉 江ノ島電鉄設置で移した「諏訪神社」

 現在の鎌倉市役所横、市立御成小学校付近は諏訪一族の屋敷跡と伝える場所で、この諏訪神社も諏訪一族の守護神として邸内に祀られていたという。もともとは御成小学校内にあったが、江ノ島電鉄の開通に伴い現在地に移した。御成の人々はもともと小町の蛭子神社の氏子であったが、鉄道線路による分断もあり、1950年頃から諏訪神社の氏子となった。

知性とユーモア!

 ユーモアがある人は、危機に対しても冷静に対処できる、とのこと。確かに、ユーモアを考えるには、まず、周囲の状況や人々を冷静に観察する必要があります。その素質が危機状況のときに役立つのでしょう。現在の新コロナウィルス危機においても、この素質がある人は、きっと乗り越えるのでしょう。ユーモアを言える人になりたいですね!

福山 鞆 創建から五回も焼けた「静観寺」

 創建は806(大同元)年、最澄によると伝えられています。当時は、7000坪の大敷地に七堂伽藍が建ち並んで、五重塔も天を衝き、たいへんに栄えていたといいます。
 のちの小松寺が境内に建立されことからも静観寺がいかに大寺院であったかを示しています。
 しかし、相次ぐ戦乱や火災によって、創建から千二百年の間に五回も焼けています。多くの文化財は焼失してしまいました。残念ながら現在では往時の栄華を物語るものは残されていません。
 それでも、この「静観寺」はしっかりと命脈を保ち、今でも、鞆一番の古刹として人びとに愛され続けているのです。時が止まったような、ほっと落ち着けるお寺さんです。

“傷つくのを感じない”ようになると!

 いつからでしょうか?「完璧」を求めるようになってきました。テストで100点至上主義のためでしょうか。スペシャリスト指向のためでしょうか。みんな気がついているのでしょうが、テストの100点の回答は、必ずしも自分生きている間において、正解であり続けるとは限りません。スペシャリストもそうです。その仕事を辞めた途端、いかにもの知らずで視野が狭かったと気づきます。もっと、「出来損ない」を大事にしたいですね!

 浄土寺山には、大阪城の石垣につかわれた石の残りも残っています。豊臣秀吉が天正十一年(1583)全国制覇の根拠地として大阪に壮麗な城を築きましたが、その石垣に瀬戸内海沿岸の石が多く用いられました。尾道の浄土寺山からも大阪へ船で積み出されていました。 どのようにして運んだのか分かりませんが、この辺りは海の干潮と満潮の潮の高低差が3m以上もあるので、干潮のときに、海の中にある石にロープをかけ船に結びつけ、満潮になると、船と一緒に石も海底から離れるので、沖に出ることができます。そのようにして運んだのでしょうか?

「ひとり遊び」のバランス!

 むかしは「ひとり遊び」は、多くの子供達が経験していたことと思います。特に狭い坂道が多い地域では、幼稚園や保育所までの送り迎えは無理なところが多くありました。それに、電化製品も少なく、主婦は忙しかったので、時間に余裕もありませんでした。「ひとり遊び」の経験が多い子は、逆に友達作りもうまく、また、イジメに遭っても一人で過ごすことも身につけていたようです。そのためか、イジメが今のように問題になることも少なかったようです!

厚木 鋳物師が活動に因んで「鐘鋳神社」

 旧名:妙見宮(天之御中主神)。北斗七星を神格化して祭ったもの。
 風土記稿によれば1629年 村民難波富右衛門が本国下総(千葉県)の原社を勧請したという。また地名の中金井について「古は金鋳と書し、上中下に分け唱へしなり、此所は鋳工銅銕を鋳し地にて、今も地中より銕屑でると云」 としている。 鋳物師が活動してゐた記録があり、当社の「鐘鋳」の社名はこれに因んでいる。ご神体は銅製の男神立像。