自分と目先のことだけを考えて行動?

 「目先のことしか考えない」、それもNETからの情報で。
 事実(現状)を洩れなく把握することに、ほとんどの時間を使い、結論を出すのは、総時間の5%程度の時間配分が望ましいのでしょうが、現在は、現状把握ではなく、NETでの情報集め中心になってしまいました、これからは「生成AI」が結論を出す時代になるのかもしれません。
 「目先のことしか考えない」という事態は、核家族という社会も関係しているのでしょうか。「あれ、これ」考えることができなくなってしまっているようですね!

神道の“自他一如の法則”という教え!

 智慧は、学問的知識や頭の良さの発揮と思われがちですが、そうではないようです。辞書によると「人生経験や人格の完成を俟(ま)って初めて得られる,人生の目的・物事の根本の相にかかわる深い知識。叡智(えいち)。」とのこと。
 具体的には、「誰にも親切にする」と思った方が合っているようです。相手の立場で考え、相手のメリットになりそうなことが出来ることが「智慧」と、思った方がよいようです!

「自分」とは「自然の一部分」なのである!

 昨今は「いただきます」という言葉を、感覚で理解している人が少なくなっているようです。言葉での説明で、分かったつもりになっているようです。
 自然の中で生活していれば、少しの説明で「いただきます」の意味を感覚的に理解できます。
 自然の中で暮らし、食事のたびに「いただきます」と繰り返していると、自然に感謝する生活が根づいてきます。そして、周りの人たちへの気づかいもできるようになっていくのでしょう。
 この環境が壊れた結果が、異常な犯罪に結びついてしまうのでしょうか?

ものごとを理解するときには頭と体の二つを使う!

 むかしは、「仕事は、見て盗め」が原則でした。見ながら、やってみて、自分で悪いところを見つけ、改善し、それを繰り返していました。
 しかし、能率優先になり、マニュアル化し、あるいは、自動化してきました。その結果、経験が少なくても、安定した品質を保つことができるようになりました。
 これは、社会としては進化をしたのでしょうが、ヒトとして、個々人の進化を手に入れることが出来たのででしょうか。
 この流れは、ヒトの定められた進路なのでしょうから、どううまく乗って行くかを考えるしかないのでしょうね!

弱い存在がゆえに身につけたものがある!

 人はなぜ、強い者が生き残ると、考えてしまうのでしょうか?
 「自分は弱い」という意識が持続していれば、どんな状態であれ、いろいろと工夫を続けて、自分の弱みを少しでも改善しようと、がんばり続けます。
 しかし、「自分は強くなった」と思ったとたん、じわじわと弱みをが出始めます。 傲慢とは、「思い上がり=弱み」がはっきりと出始めた状態。この先は………。ロシアのプーチン大統領は、どうなるのでしょうか?

なぜ、未来はわれわれを必要としないのか!

 どうも、そろそろ人間の知恵が、惠(めぐみ)をもたらすことに限界が近づいてきたのでしょうか?
 便利さが、人間の機能を劣化(熱中症、もしかすると認知症も?)させ、そのうちロボットに養ってもらう時代が来るのかも知れません。
 もしかすると、無意識に、便利さを失うのなら、人間は滅亡してもよいのでは、と感じているのでしょうか?

「足るを知る」の思想で考える!

 人類自身が、「人類の滅亡の原因が、人類自身にあるのでは?」と気づき始めました。そして、人類の滅亡は、人類自身では防ぐことが出来ないであろう、と感じ始める時期が来そうです。
 「足(たる)を知る」ということができれば、人類の滅亡を防ぐことが出来そうですが、脳の設計上、どうも無理なようです。
 そういえば、人類が発明した技術の多くは、AIも含めて「無生物」を使うものです。無生物が、生物である人類を制御する時代がどんどん進化していますね!

50代、新しい一歩を踏み出す年齢だ!

 子ども時代から、100点を目指すように取り組んでいると、大人になり、働くようになっても、やはり100点を目指すようになってしまいます。
 そのままそれを40~50年も続けていると、そこから外れたときも、その影響が強く残ってしまいます。しかし、退職すると、その力を発揮するところがなくなってしまいます。
 早いうちから、趣味や習い事に取り組み、対策をしておくと、その後の20~30年、愉しく生きることにつながります!

これからは江戸時代以来のおけいこごとのブームが!

 「教育は投資」という状況が、少しづつ緩和されてくるようです。しかし、それが充実した人生づくりに、どの程度役立つのかは不明です。
 生成AIが進化・普及すると、知識を持っているだけでは、仕事上の優位とは言い切れない場面も増えてくるのでしょう。
 しかし、お稽古ごとは、人生を豊かにするものです。自分自身を豊かにするだけでなく、いろいろな人とのつながりも増えててきます。
 長寿社会を考えたとき、充実した人生を長く手に入れるためにも、「お稽古ごと」は大切ですね!

自分一人、間違いないと決め込むと!

 ほんのひとにぎりの人ですが、「自分だけが正しい」と思い込んでいる人がいます。これは、おそらく動物の中で、ヒト属だけの特徴なのでしょう。というより、4~5千年以降の人類からなのでしょうか。
 これは農業が広く普及しはじめたことと関係があるのでしょうか? 
 みんなで分け与え生き延びる作戦から、農業が広まり、生き延びることが比較的可能になった結果、より豊かな生活を望む機能が発達した人が出てきて、その結果、芸術家も出てきたのでしょうが、独裁者も出てきたのでしょうね!

話すことは書くよりも難しい技術!

 話す技術は、書く技術より、はるかに難しい、と言われる。書く技術は、自分が一方的に構成し、自分流の話の盛り上げをすれば、それで済む。
 しかし、話す場合は、必ず相手がおり、相手は何かしらの反応を、その都度行う。その反応に対応しながら、話を構成しなくてはならない。そのため難しい。
 ネットの普及は、この話すことの難しさから逃れることが出来る。ネットへの掲載は、自分流で一方的に書き、掲載すれば済む。このページもそうですが、そのため続けていけるのでしょうね!

相手のことをよく観察し「ほめる」!

 最近ネットの普及で、人を直接観察し、人同士が直接コミュニケーションをとる経験が少なくなりつつあるようです。
 ネットでつながっていることと、直接人同士がつながっていることが、同じと思っている人もいるようです。
 人同士が直接つながりをもつ場合は、相手を「良い」「悪い」で評価せず、「ああ、そうなのか」で止め、評価をしないことが大事だと思います。
 学校教育で、「良い」「悪い」の評価の延長で大人になっているためか、何でも評価してしまうようです。
 しかし、事実は、ありのまま「そうなんだ」で止め、点数づけはしたくないですね。料理もそうですが!

さまざまな電化製品生活を便利にはしたが!

 1960年代以降、家庭用に様々な電化製品が普及しました。便利になり、時間にも余裕ができるようになりました。
 最近は、様々なメニュー化、あるいは自動化で、人が考えてすることが、どんどん少なくなっています。
 料理にたとえると、人間はただ食べるだけ、といっても良いほどです。
 その結果、考えることが減り、手を使わなくなり、味わいも、ただこの味か、というだけになりました。
 もちろん、機械に助けられているため、人同士の協力も少なくなりました。
 ということは、先進国ほど、ヒトの進化が止まっている、あるいは、退化が始まっているのでしょうか?

意志をあまりにも強調する人!

 むかしは、自然や周りをを観察し解決策と考えました。それでも解決できない困難に出会うと、しかたなく神仏に頼っていました。
 現在は、言葉でネット検索し、あるいは「ChatGPT」に質問したりします。その結果、「観察し、考える」ことが激減してしまいそうです。
 人類の生き残りのための進化は、周囲を観察し、考えることが出来るように進化することで、生き残ってきました。
 考えることが不要なほど便利になることは、人類の生き残るという視点から見ると、どのような結果に導くのでしょうか?

カフェインは毒性物質の一種、注意も!

 国内では日本茶の需要が少し減っているようです。ましたて急須でお茶を入れることはかなり減ってきているようです。
 急須で入れると、お茶の種類やお湯の温度の違いで、お茶の味が微妙に変化するのですが、ペットボトルのお茶になれてしまうと、急須で入れるのが面倒になります。
 微妙な味の変化は感じる力、それを歳をとっても維持していくことは、きっと感覚の維持につなかり、老化予防に良いのだと思うのですが、ついつい、楽な方向に行ってしまいますね!

自分の持っていない幸せだけが「幸せ?」

 「もっと○○だったら……」と思うことが、日常的になってしまうと、不満が蓄積してしまいます。
 毎日、「おかげさまで」で過ごしていると、毎日が楽に過ごせることでしょう。
 幼少の時期から、何となく人と比べられ、少しでも人より上にあることを求め続けられ、それが出来ないと、不満になるように躾けられていると、なかなか楽に生きる技術は身につかないことでしょうね。
 ネット社会で情報があふれてくると、どんどん人と比べるようになってしまいますね!

相手のことばかりに気持が向き過ぎてしまう!

 子供の時に「自分」というものを、どのように造っていくか。知識教育だけでは、「自分」というものを造ることは出来ないのでしょう。
 自然を五感で感じ、自分でどのようにその環境(自然)に対応するか、考える経験を積み重ねることが大切なようです。
 ただ、現在は子どもの事故を防ぐため、安全対策がされているため、本当の思考力は身につかないのでしょうが。そうかといって、危険な環境を放置することもできないので、難しいですね!

叱った後は、叱り終わった合図を!

 「叱る」とき、「叱り終わり」を考えてから叱っていますか?
 叱る目的は、叱る相手に何かしらの改善を要求し、そして、結果を出してほしいから叱っています。
 叱った結果は、どの程度改善が実現していますか?
 よく見かけるのは、叱る側のストレス解消のため叱っている、と感じてしまうことがあります。これでは、叱られた側もストレスが残り、双方とも何のメリットも生まれてきません。
 何かしらの改善が生まれる叱り方を、充分考えてから、叱りたいですね!

究極に到り着きそこに住(とど)まる重い病気!

 最近は、スペシャリストを目指す人が多い感じがします。しかし、専門知識のそばに、雑学を置いといてほしいです。
 専門知識一辺倒になると、思考の幅が狭くなっていきます。曖昧さが許せなくなります。
 日本の平和な時代は、「曖昧を許容する」ときです。思考の狭さは、社会から見ると、危険視されることもあります。
 その状態で年齢を重ねていくと、いっそう執着心が強いまま、思考が狭いまま、過ごすことになります。仕事をしているときは、まだ良いのですが、リタイヤすると、大きな弊害になることもあります!

子供の時からいろんな人との接触が必要!

 今は、子どもに声をかけにくい社会になっています。その結果、子供達は人を見抜く力がついていません。また、「このようなことをやると、他人(社会)からどのように見られるか」ということを、考えなくなってしまったようです。
 自分が置かれている状況の、「気配」とか「殺気」も感じることが出来にくくなっているようです。
 「人が絶滅しない社会」を考えたとき、どのようにすれば、どのような社会であったら、良いのでしょうか?