岩屋を正面から見ると、ほぼ三つの岩で岩屋ができている。上の大きな岩が、岩屋の天井部分になっており、その大岩を支えているのが両側の二つの岩で、それぞれが岩屋の左側面と右側面にある。
下の岩に、大きく湾曲した上の大岩が乗っている。後にもう一つの岩があり、上の大岩を文えているようです。 古代人が造営したとも言われています。これだけの重量をどのように動かしたのでしょうか? 確かに岩の重なり方は人工的とは思えるのですが。
12月 2023のアーカイブ
いいオーラは、ポジティブな感情から!
初めての街で、何か聞きたいとき、自然と人を選んでいます。何かしらの雰囲気がそうさせるのでしょうね。
また、知らない街に行ったとき、子供さんに挨拶をされることがあります。もちろん、街によっての違いはあるのですが、そのような街は、大人が、子供さんを大事にしている街なのでしょうね。また、子供さんも、大人を見る目があるのでしょうか。
そんな街は、また行きたくなる街ですね!
相模原 南西 小田原北条時代お堂を再建「長松寺」
鎌倉公方足利氏満開基となり、曇芳(どんぽう)(1399年没)を開山として臨済宗建長寺宝珠庵の末寺として建立。
1430年再建。その後何度か衰退を繰り返したが小田原北条氏の時代お堂が再建された。また、換室宗応(かんしつそうおう)という僧が代官平岡岡右衛門吉道とともに曹洞宗に改宗し、津久井の功雲寺末寺として再度開基された。
1649年に寺領十石の朱印状(寄進状)が与えられている。
時代の先読みが必要不可欠!
どのタイミングで、新商品や新サービスを出すか、それが新しいほど難しいですね。
生成AIですら、コンピューターがいくら進歩していたとしても、NET社会になっていなければ、それほど注目はされなかったのでしょう。
ビジネスの社会では、今の社会、今の消費者だけでなく、ちょっと先も見えてなければいけません。
そして、数十年、数百年と売り続けるには、庶民の歴史も知らなければならないですね!
尾道にこんなところが「日比崎 竜王山石仏群」
この竜王山は広島県尾道市日比崎町にある山で標高144.6mです。(尾道市には「竜王山」という名前の山が5つもあります。)
竜王山の五大明王は浮き彫り像で、不動明王は上部を浅い山型にした板状の石材を使い半肉彫りです。他の明王は船型の半肉彫りです。降三世明王は大自在天とその妃、烏摩を踏みつけて立つ三面八臂像で、軍荼利明王は一面十臂像、金剛夜叉明王は三面八臂像で、それぞれ火焔光背を負うています。細部まで丁寧に彫られた明王像で、大威徳明王は不動明王と降三世明王の後ろに隠れるように置かれています。
必要に「なるかもしれない」ものまで!
旅行でも、出張でも、宿泊先を選ぶのは大変ですね。円安ですし、国内でも値上がりしているようですし。
また、荷物をどれほどコンパクトにするか、これも大変ですね。
それに、災害もある程度想定しなければなりません。
あまり考え込まないで、気楽に行きたいものです。
鎌倉 腰越 日蓮にぼたもちを供養した「法源寺」
法源寺は、ぼたもち寺ともいわれ、桟敷尼(さじきに)が龍ノ口(たつのくち)の法難(ほうなん)の日蓮にぼたもちを供養(くよう)したといわれます。
大町の常栄寺(じょうえいじ)にも同じ話がありますが、桟敷尼の実家が腰越だったといわれます。
境内の向かって左側の建物は、「経一殿(きょういちでん)」という額を掲げる稲荷(いなり)堂です。
この経一稲荷は、龍口寺の稲荷などとともに四方から日蓮を守護(しゅご)したと伝えられています。
社会に出ると完全な縦社会!
社会に出ると、学生時代の横社会から、縦社会に変わります。しかし、この縦社会は、昔の縦社会とは違っています。
現在の縦社会は、下の者が、上のご機嫌を伺う、というスタイルです。しかし、昔の縦社会は、リーダーが、下の者の能力や性格を考え、その人が一番能力を発揮しやすい環境に、置くことを考えていました。
ソ連の捕虜になった、第二次世界大戦の日本兵捕虜の班長ですら、班員の性格や能力を見極め、配置していました。
これは、子供時代に、ガキ大将を中心に、年齢が10歳以上離れた子供達が、一緒に遊んでいので、ガキ大将は、下の子供達の能力を考えながら、安全を確保しながら、みんなでいかに楽しむかを、考えながら遊んでいました。
例えば、ソフトボールで遊ぶとき、中学生がピッチャーで、小学3年生がバッターの時、力一杯投げますが? 手加減して投げることを学んでいました。
しかし、そのような体験がある世代は、昭和15年(1940年)生まれ位まででしょうか!
厚木 元山王社の山王権現を祀る「知恩寺」
【智恩寺山王大権現懸仏】
江戸時代には、智恩寺境内にあった山王社にまつられていた懸仏(かけぼとけ)が、現在では本堂の中に保存されています。
山王権現とは、日吉神社・日枝神社の祭神であり、権現とは仏・菩薩が化身してわが国の神として現れることを意味しています。また懸仏は銅などの円板上に、仏像・神像を半肉彫りにあらわし、柱や壁などにかけて礼拝したもので、特に鎌倉時代から室町時代にかけての資料が多く見られます。
最も酷使されているのは“足”!
足の裏は敏感ですね。靴の中に、小さな石が入っただけで、直ぐ取り出しますね。
むかし、小学校の体育の時間は、素足で運動場を走っていました。その時は、何も気になりませんでした。
また、中学校の時、視力を失った友達は、「足の裏が目の代わり」と言っていました。
状況に応じて、敏感になったり、鈍感になったり、不思議ですね。
足の裏も含めて、足からの情報を、もっと大切にしなくてはいけませんね!
尾道 尾道で最初にできた神社「艮神社」
最上部の笠木(かさぎ)と反増(そりまし)部分(両側の反り返った所)の大きくてきれいにえがかれた曲面を持つ石鳥居は、尾道以外では余り見かけません。
非常に神聖な感じを受ける神社ですね。
この神社の真上を千光寺山へのロープウェイが通っています。ロープウェイの駅も直ぐそばにあります。
“神様の真上をロープウエイで通るなんて”この感覚は尾道的なのでしょうか。尾道には神様も仏様も(隣近所に)たくさんいらっしゃるので、あまり気にしないのですね。