807年(大同2年)に弘法大師によって建立されたと伝わる。古くは、七堂伽藍の備わった寺院だった。飯山観音の入口ともなっている小鮎川に架かる朱塗りの橋は「庫裡橋」と呼ばれ、金剛寺の庫裡に向かって架けられていたといわれている。
鎌倉時代には、鎌倉の覚園寺や金沢の称名寺とも繋がりのある律宗寺院として栄え、相模国の華厳学研究の拠点としても栄えた。天文年間(1532~1554年)に曹洞宗に改宗され再興されている。
10月 2020のアーカイブ
取り越し苦労から毒素が血液に入る!
現在は、知識教育が普及し過ぎ、その知識をもとに、いろいろと考えるようになっています。ネット検索は似通った知識や情報を集めるように進化しています。異質なものを避ける技術が定着し過ぎています。それとともに、感覚からの情報入力が劣化し、その情報の処理能力がどんどん小さくなっています。歩くことに例えると、悪い道を歩くと、凸凹があり、坂道では雨水の流れで削られた箇所があり、小石や枯れ葉で滑りやすく、足の裏からの情報で、足首や膝まわりの筋肉が微妙にコントロールします。舗装路では、ただただ足を前後に動かすだけ、という場面が多くなります。関節まわりの筋肉のコントロールも少なくてすみます。ただ、歩くスピードは速くなります。どちらが良いのでしょうか?
鎌倉 元寇を退けた北条時宗の菩提を葬る「仏日庵」
北条時宗は公安9年(1284)に死去したのだが、その菩提はこの円覚寺の仏日庵に葬られた。
その後北条貞時の時代になり、円覚寺は朝廷から太政官符を与えられ、官寺の寺格を得ることになる。貞時の死に際しては法堂が完成し、法要が営まれた。建武・暦応年間(1333~1342)に描かれた「円覚寺境内絵図」には、総門から山門、仏殿などが中国の宋にならって一直線に並び、その隆盛を今に伝えている。
「売れない色」というのがある!
「色」は災害情報などの色分けに見られるように、人を行動させる力を持っているようです。商品の選択に影響するデザイン、ファッションにおける色使い、天気予報などに見られる色分けなど、いろいろと使い分けられています。昔は地位を言葉で区分するだけでなく、それぞれの地位を色分けし区分しています。言葉では表せない表現力があるのですね!
尾道 海上3分の航海を体験しませんか「福本渡船」
大林宣彦監督の映画「ふたり」「さびしんぼう」のロケ地となったり、PlayStation 4用ゲームソフト「龍が如く6 命の詩」にも尾道仁涯町の“仁涯渡船場”として描かれています。
チケットを購入する必要はありません。船内で料金が徴収されます。カード類は利用できませんので小銭を用意して乗船して下さい。片道3分の航海を体験でき、通勤時間帯は約5分間隔、通勤時間帯以外は10分間隔で就航しています。(混み具合で変わることもあります。)
座っているよりも立っているほうがマシ!
椅子に座っている時間が増えている人が多いと思います。最近は、ディスクワークを立ってやる人も出てきています。座っていると、腰への負担が思っている以上に大きいとのこと、立ったほうが良いのですね。そのとき丹田(へその下のあたり)に力を入れると良いのでしょう。歳を取って、背中が真っ直ぐになっていてくれれば良いのですが!
相模原 一遍が草庵を設けたのが始まり「無量光寺」
1261年 23歳の一遍はこの地を訪れ、草庵を設けたのが始まり。その後上人は2度この地を訪れた。その高弟である他阿真教が1303年2月に遊行を終えて止住するために念仏道場を開いたのが起源であろう。1319年に真教が亡くなると、初期時衆教団の聖地となり、参詣者が引きも切らなかったことが他阿呑海の法語に遺っている。
鎌倉幕府が滅亡したとき、鎌倉幕府からの帰依を受けた無量光寺は一時衰退した。
戦国時代に無量光寺は歴代小田原北条氏の保護を受け、南関東を中心に勢力を誇った。しかし1590年に小田原北条氏が滅亡し、たび重なる火災のために、再び不振となった。
最後までやり切るという精神で!
「一度始めたことは最後までやる」、また、「君子は豹変す」(過ちに気づけば即座にそれを改める)もことわざにあります。そのときの社会情勢によって、どちらがよいのか、また、自分が置かれている環境(状況)により、どちらがよいのかは変わってくるのでしょう。自分の基本的な考え方も大切ですが、頑固になりすぎても、まわりの人が困ります。やはり、先入観無しで、今置かれている状況を、できるだけ客観的に、事実を幅広く集め、決めていくしかないのでしょう。アメリカの大統領選挙を見ていると、単なる言葉だけで、固定観念をあおっており、事実は、どこかにいってしまっている印象を受けてしまします!
鎌倉 足利尊氏屋敷跡に建てた「長寿禅寺」
長寿寺は、初代鎌倉公方足利基氏(もとうじ)が父尊氏(たかうじ)のため、その屋敷跡に1374年(応安7年) に亡くなった古先印元(こせんいんげん)を開山として、1323年(元亨3年)~1336年(建武3年)ころに建てたといわれ大きな寺でした。一説には、足利尊氏が建てたともいわれていますが、尊氏の法名(ほうみょう)が関東では、長寿寺殿とされたのはこの寺の名が由来だといわれます。
足利尊氏も織田信長も、「この世は幻のようなもの」といっている。
そうはいいながらも、尊氏も信長も懸命に戦って人生を駆け抜けた。
違いは、尊氏は家系(男系)をある程度残すことができたが、信長は残すことが出来なかった。信長にとっては「この世は幻のようなもの」でした。
成功するアイデアを出しやすい人!
変化の少ない安定した時代では、知識をベースにして、机の上で考え、アイデアを思いつけばなんとかなるのですが、世の中が変化しているときは、なかなかそうはいきません。現在のような社会が変化しているときは、多彩な検討が必要です。その原点は子供時代に自然の中で遊んだ時間の量のようです。自然は多彩で、しかも時期によって、環境によって、地域によって変化します。そして、自分の思い通りにはなりません。その環境に自分を合わせて行くしかないのです。そのような変化を数多く体験していることが、変化の時代には強みになるのでしょう!
尾道 虚空蔵堂もある「慈観寺」
虚空蔵堂
「講(こう)」といい、同一の信仰を持つ人たちの結社で維持されていたお堂でした。現在は慈観寺さんが引き継がれているそうです。
海中より引き上げられたと伝わる虚空蔵菩薩像を安置。「空海が、海の彼方の輝く老木を引き上げて等身大の虚空蔵菩薩座像を刻み安置した」、という伝説があります。
疱瘡(ほうそう)(天然痘)にかかった子供が治癒したので、子供の病気の治癒に効くとされています。そのためか、「薬師如来の真言」を書いた紙が、下に貼られています。