知性を獲得するのに年齢は関係ない!

 思考の老化防止のため、まず「ほんとかな?」でスタートし、次ぎに「提示されていることの反対のやり方だと、どうなるかな?」と頭を使うと、思考の老化を防ぐことができるのでしょう。
 現在は専門家指向が高くなっているようです。これが思考老化の原因になります。また、ネットでの検索の結果がAIの活用で、ますます情報が絞り込まれてしまいます。情報を絞ると多様な考え方ができなくなってしまいます。
 また、社会のしくみが整備されればされるほど、考え方が固定化します。
 極端な例ですが、「一夫一婦制度が人類が生き残っていくために一番有効な制度か?」と問われたとき、新コロナが蔓延している現在、数人の子供ができ、その中で「免疫力が強い子供が生き残っていく」と考えた場合、その可能性を広げるには「一婦多夫」で、多彩な遺伝子を持つ子供をつくったほうが人類が生き残れるのではないか、という思考もあります。実際に現在もそんな社会は多少ですが存在しています!

人と人の関係は「機嫌よく」を追求!

 「簡単な問題 」→ 「簡単に考える」、「複雑な問題」 → 「複雑に考える」のはなぜでしょう? これは複雑な問題なので、複雑に考えてしまいますね。「人間はそうゆうものだ」としてしまいましょう。
 少し問題は違いますが、最近自動車事故で、アクセルとブレーキの踏み違いが発生しています。クルマのギアがオートマチックになり、運転が簡単になりました。運転が簡単になると、注意力が低下し事故が起きやすいのですね。クルマの運転は、年齢が上がるとマニュアル車のほうが、事故が起きにくくなるのでしょうか、あるいは、運転免許返納の思い切りがつくようになるのでしょうか!

自己投資は年収の1割以内ならOK!

 出身大学や資格に頼る時代は終わりつつあるようです。AIの進歩は、予測できないほど早く、知識をベースにした資格は、不要になってしまう可能性が強くなってきています。
 AI中心の時代になった時、どの言語が専門分野において有効か、という現象も起きてくるのでしょう。単純な言語はAI化は行いやすいのでしょうが、機能的にはどうなのでしょうか。
 自分で、本をもとに8万件以上の日本語のデータベースをもとに、単語検索をしながら、いろいろな知識を組み合わせ遊んでいる私からみると、日本語はAIには難しい部分が多い面があるようです。また、地域・時代によって意味の解釈が少し異なるため、より難しいのでしょう。
 ただ、この面が、より面白く、意味深いものができる可能性を秘めていると思われます。

孤独な時間というのは人間の成長に必要!

 男女の不平等が社会的な問題とされています。平等とは「差別をせずに同じようにするこ」。「平」はやすらか、おだやか。「等」は、同じものをそろえて整理する。という意味もあります。もし、男女(男女に限らず)違いがあるのなら、その違いを考慮しながら、「おだやかなになるように、そろえ整理する」というように解釈することもできると思います。
 他の生物が人間を見れば、どれも同じようにしか見えないのでしょう(人がサルを見ても、なかなか見分けがつかないように)。普段、他の人を見るときに、無意識に何かしらの違いを見つけようとしています。違いにしか目が向いていないのでしょう。サルが、人間のテストの点数が100点と20点の人の違いを意識するのでしょうか?
 そういえは、テストには記述問題がありますが、先生が点数をつけるとき(100点満点の時)100点以上の点数をつけたいこともあるのでしょう。昔は103点とか、105点とかをつける先生がたまにおられましたが、点数をパソコンに入力するようになり、100点以上は受け付けられなくなっています。これも平等ですね!

コミュニケーションをとりたいのに!

 ライオンのオスは、家族とどのようにコミュニケーションしているのでしょうか?
 家族に対する役割は、縄張りを守ること、人間で言えば武士が田畑を守るようなものでしょうか?
 しかし、食べ物を入手する働き(ライオンで言えば「狩」、人間で言えば、数千年前からは「農作業」)は行いません。
 農民と武士のコミュニケーションがそれほどないように、役割を中心に集団を作っていれば、それでいい、ということなのでしょうか?
 今の社会では、家族のコミュニケーションがものすごく大事なものとして、情報が発信されています。でも、1970年代頃まででしょうか、「亭主元気で留守が良い」が常識でした。ほんとうはどちらが良いのでしょうか?
 2012年の研究では、夫婦で、男性が仕事で最も忙しい40代のとき、女性の幸福度が高く、男性の年齢が上がって行くにつれ、女性の幸福度が下がっているそうです!

ヒューマンタッチ感覚が薄れていく!

 新コロナ伝染病で、人同士の接触が難しい状態が続いています。これが原因で人づきあいも下手になっていくのでしょうか? 人付き合いが下手になってきたのは、昭和の高度成長期の少し前から、電話が普及し、核家族が増えていき、その後は、携帯電話になり、インターネットが拡大した結果なのでしょうか?
 言葉による情報が多量になってきた現在でも、「痛みに関する言葉」は、オンライン診療がささやかれている現在でも、まったくといっていいほど整備されていないですね。方言の中には、その地方特有の病気に対する言葉が多くあると思われるのですが、一般的な言葉にはなっていないですね。
 数万年かけて人同士が築いてきたノウハウ、特に視覚や言語以外の感覚が鈍くなってきているのでしょう。 また、人だけでなく、自然が発している危険信号を受信する感覚も、劣化しているようです!

食糧危機も控えています!

 食糧問題が深刻化すると予想されています。昔の八百屋さんや魚屋さんは、夕方近くになると売れ残り対策のため、お客さんに、その家の家族構成を考慮しながら、料理の仕方を教え、売れ残りそうな食品をなんとか売る店がありました。しかし、現在のスーパーはお客さん任せで、売れ残りそうな食品を使った料理の仕方を教える店などはありません。今の技術では、店の入口のディスプレイを数台置き、売れ残りそうな食材を使ったいろいろな料理を流し、それをお客が選択し、人数と割増率(たくさん食べる家族がいるので1割プラスとか、5%マイナスとか)を入力すると、お店がその量をひとまとめにして準備し、レジで領収書にQRコードを印刷、それをスマホなどで読み取れば、その料理方法の説明した画面にたどり着くようなサービスを、お客に提供するようなお店があるといいのですが。地域によってはもうあるのかな?

貧乏な人とは、いくらあっても満足しない人のこと!

 幸福な国のブータンでは、おそらく「満足しない人=貧乏人」ということなので 幸せな国ブータンの平均年間所得は15万円程度、ということは「不幸な人=満足しない人」ということなのでしょう。
 日本でも70年ほど前(1950年頃)はみんな貧乏だったのですが、それほど「不幸だ」という認識はなかったように思います。ある意味、生きていることに感謝、ということだったのでしょう。
 経済成長し、豊かになり、そして格差が生まれ、不幸が生まれてきたのでしょうか。
 テレワークの普及で地方に移り、家庭菜園が広がると、食べることに対する不安が少なくなってきます。すると、少しは幸せな気分になっていくのでしょうか?

自分の中のかわいらしさを引きだす!

 どんなときでも、「自分のいいとき」のイメージを思い出して、人と接することが大事ですね。いつお眉間にしわをよせているようでは、相手は警戒してしまいます。「いいとき=微笑(笑顔)」を顔に浮かべて人に接していると、いいことが増えてくるのでしょう。
 その特性を利用して人をだます人もいるので、笑顔を浮かべながらも、無防備ではいけないのでしょう。今はそんな時代になっているようです!

好き勝手に生きていない人は「いい人」!

 新コロナで疫病が蔓延しているときのエチケットの代表は、正しくマスクの着用をすること、なのですが、「オレは好き勝手に生きるんだ」と主張したいのか、マスクを着用しない人がいます。
 少し昔までは、疫病が流行したとき、対策をしなかった人の多くは自然淘汰されてきたのでしょうか? 医療が発達してくると、自然淘汰から経済格差へと移行するのでしょうか? これも広い意味で自然淘汰なのでしょうか。
 サルの社会でも、オスサルの中には群れから離れて単独で生きるサルもいます。そして、いろいろな群れに入ったり、出たり、その中には長期間単独で暮らすサルもいるそうです。人間も、集団の中から離れる人もいますが、集団の中に入り込もうとする人もいますね。

ミスを犯す五つの状況!

 子供時代から、多くの失敗をする経験は大事なことでしょう。子供時代の失敗の多くは、テストでの間違いではなく、遊びのなかで“危険”な経験を積むことでしょう。
 この経験なかで、「危険を感じたとき、ゆっくりと慎重に考える」ことが、自分の身を守ることに大事なことを経験します。

色を見た場合、補色が残像として残る!

 色に対する人間の反応は、やはり、生活環境の歴史の蓄積からきているのでしょうか? 子供時代、昆虫を殺したとき、魚を殺したとき、動物を殺したとき、心の反応は違います。その違いが色と結びついているのでしょうか? 今の子供は、生物を殺すという場面を経験することが少ないので、これからは違ってくるのでしょうか、それと既にDNAに刻み込まれているのでしょうか?

人は、聴く能力の四分の一しか使っていない!

 「聴く」という技術は、かなり難しいものですね。どうしても、自分の知識、そして先入観をもとに聴いてしまいます。相手の価値観をもとに聴くことは、かなり難しいものです。また、話す方も、聴く方を観察しながら話す方もいれば、一方的に話す方もいます。もっとも、話の中で、真剣に意思疎通が必要な会話はごく少ないので、それほどは気にしなくても良いのですが、重要な話しを、軽めに話す人もいますので、見逃してしまいます。話す方も、聴く方も、真剣な話しかどうか、見逃さないようにしなければなりませんね。難しいですね!

他者中心になっている人!

 瑠璃山という別名を持つ山。山麓を瑠璃地区とも云っていた。
 尾道三山で最も高い浄土寺山(瑠璃山)の山頂展望台からの眺めは天下一品。歴史的な雰囲気を残す尾道旧市街地はもちろん、南には瀬戸内海の島々、北には尾道の別の姿を見ることができます。
 特に瀬戸内の島々の遠望が良いです。ここまで登ってくる観光客はまづいません。地元の人でさえ、そんなには登ってはこない静かなところです。
 浄土寺山は”尾道の隠れた名所”といっても良い景色のよいところ。冬の時期、条件が良ければ四国山脈まで一望できます。

人間は、サルから進化した動物!

 生物の進化についての解明が進んでいます。ウイルスもDNAに影響を与え、その進化に大きく影響しているようです。環境の変化への適応能力が「進化」というものなのでしょうか。皮膚が進化し、味が分かるようになり、目ができ、耳ができ、ニオイもわかり、自分が生存していく上での情報が入手できるようになり、ときには移動して生存できる場所を見つけて生き延びてきたのでしょう。人間は、環境を作り変える力さえも持ち、自分たちに有害なものを駆逐するまでできるようになったもの(人間)もいます。生物は、いつまで環境の変化に対応できるのでしょうか!

カンブリア紀(約5億年前)に生物が大発生!

 古代期の生物が情報を収集する方法は、皮膚からしか情報収集ができなかったそうです。それがカンブリア紀に皮膚が変化し「目」ができ、その目から情報収集ができるようになり大進化をしました。耳や鼻も皮膚が進化してできたのでしょう。その結果、情報の量が圧倒的に増え、脳ができ進化していったのでしょう。私たち人類は、進化の過程で木から下り、食料を得るために長時間の運動が必要となり、放熱のため体毛がなくなりました。その結果、古代に持っていた皮膚からの情報収集力が復活したのでしょう。「殺気」とか「第六感」とかいわれる感覚は、皮膚からの情報収集なのでしょうか? 

はつらつとして生きていること!

 「笑い」は、人とのつながりにおいては必須のもの。イラク戦争のときか、米軍の部隊がイスラムの牧師を訪ねるため町に入ったとき、その町の人々に囲まれ険悪な状態になった時、米軍の隊長が「笑え」と命令し、隊員が笑顔になると、険悪な状況が一変したという。その隊長は世界中を一人旅した経験があり、「笑い効果」を実感していたのだそうです、笑いは大事ですね。また、笑いは健康にも良いのですね。白血球が元気になり、免疫力アップにもよい影響があるようですね!

定住生活が始まると富が不平等に!

 「定住生活」という生活スタイルが、社会風土というものをつくり出すことに大きく関係しているのでしょう。同じ場所で水と食べ物がが手に入るか、そして、そこで何人が安定して暮らせるか、ということが、集落の大きさを決めていったのでしょう。縄文時代、東日本は比較的大きな集落があり、西日本、特に中国地方にはあまりない、ということは、東日本は水が安定して手に入るが、中国地方は夏には水を確保しにくいことが一因なのでしょうか? そう いえば、井戸に石仏があるのは瀬戸内に多く、東日本では灌漑など田園に水を引く事業に石碑が建てられていますね!

見えるものしか見ない人が増えてきている!

 「見えるものしか見ない」人が増えている。しかも自己中心。このような社会的な危機状態のときはやっかいですね。これも核家族で、しかも兄弟姉妹も少ない中で育った人が多くなってきたため、自己中心になってしまうのでしょう。社会的な危機を乗り越えるには、多彩な価値観を受け入れられる人が有利です。シェアハウスで育った子供は、いろいろな価値観の人達と、子供時代から接するため「生き上手」になるのでしょう。働き方改革が叫ばれていますが、育ち方改革も必要なのでしょうね!

太っている人が増えています!

 糖質には「糖」という字がついているので「糖質=甘い」と思われているかもしれませんが、甘い糖質と甘くない糖質があります。デンプンは甘くない糖質の代表です。デンプンは米や小麦粉、いもなどの主成分です。ご飯やパンなどはさほど甘いと感じませんが、これらの食品はたくさんの糖質を含んでいます。デンプンはブドウ糖が多数つながったもので、最終的に小腸でたくさんのブドウ糖にまで分解されて吸収されます。稲作が始まったのは、考古学的な調査では約1万年前の中国長江流域の湖南省周辺地域と考えられています。人類の歴史から考えれば最近のことです。そのためか、体質がその変化に充分に対応できていないのではないでしょうか。しかし、縄文時代に15歳まで生きた人の平均寿命は、男性が31.1歳、女性が31.3歳と言われています。その後の米や麦などの生産が寿命へのプラス面は多く、寿命が延び満60歳(数え年61歳)の還暦からを「長寿」としたのは室町時代頃で、この頃からの長寿の祝いが定着していますので、やはり米などの炭水化物のメリットを選んだということなのでしょう!