穏やかで、ニコニコしていたいもの!

 マスク生活が続いています。「やさしい眼差し」の練習が必要ですね。
 「目は口ほどにものを言う」のですから、でも難しいですね。しかし、優しい言葉、そして「ありがとう」は言えますね。
 自分の頭の中に「言い訳」が住みついていると、なかなかやさしいことがが出てきません。
 早く引っ越してもらいましょう!

「群れ遊ぶ」自由な場も大切なことです!

 もうしばらく、いろいろな年齢層の子供達が、一緒に遊ぶ姿を見たことがありません。
 このように年齢の異なる子供達が群で遊ぶ中で、いろいろな違いに気がつき、その違いの要素を考え合わせた遊びを工夫し、一緒に遊ぶことを経験します。
 この経験で、それぞれの人の違いを当然のこととし、対応ができるようになるのでしょう。
 違いを当然のこととして受入ると、生きていくことが楽になることにつながるのでしょう!

自分は幸福でないと思っている人は!

 「幸福」を辞書で引くと「不自由や不満もなく,心が満ち足りている・こと」なっています。「不自由や不満はない」が「心が満ち足りている」とは思っていない人はそれなりにいるのでしょう。しかし、その人達は「不幸だ」とは思っていない、と思います。
 そうならば、「不自由」と「不満」にどのように対処するか、という問題になります。「不満」は辞書では「十分に満たされていないと思うこと」になっています。
 そのとき、満たされていないことを「きめ細かく、具体的にしているか」、「抽象的なままか」で、かなり違ってくるのでしょうね。
 抽象的なままでは、解決策は見えてこない、不満が続いてしまうのでしょうね!

食べたいと思うものは食べればいいのです!

 「食べたいと思うものを食べる」、物流が発達していなくて、地産地消が確実に行われていた時代には、それぞれの人々の腸内細菌が、その地方で採れる食料に的確に対応していたので良いことなのでしょう。
 しかし、地域によっては、あるいは、家庭によっては、祖母と異なる腸内細菌の人達が増えているようです。まだ食糧の供給事情が変化してから一世代か二世代程度のため、体としては現状に十分対応していない可能性もあります。
 昔からの食べ物を大事にしている地域では、食べたいものを食べることがベターなのでしょうが、都会の場合は注意が必要なのかも知れません。
 悪者扱いされている「脂肪」も、痩せている年配者の方のほうが早く亡くなっていること考えると、本当に正しいのでしょうか。まだ解明されていないことがあるかも知れませんね!

怒りが静まる時、後悔がやってくる!

 肩書きに関係なく、リーダー的な先輩がいると、後輩はどんどん育っていきます。
そのような先輩は、肩書きなどにこだわることはありません。
 現状の把握をもれなく正確に行った上で、自分の知識に固執せず、いろいろな知識や意見を集め、判断をして行きます。そのような行動を見た後輩は、結果的に間違った判断であったとしても、先輩を見習うようになり、どんどん間違いが少なくなっていきます。
 自分の肩書きにとらわれ、自分の思い込みに固執した判断で、結果が思わしくない状態が続くと、下の者はつらいものです!

今の子供はボス教育を受けていない!

 「ボス」と「リーダー」をどのように使い分けていますか。日本語では、ボスは『親分、親方』、リーダーは『指導者、統率者』ですが、昔の親分(ボス)は、「面倒見がよく、親のように頼りになる人」と思われていました。ヤクザの元親分が県会議員になっていたりしていた例もありました。
 現在の暴力団の親分は「部下に対して恐怖を与えて従わせようとする」ように思われています。どちらかというと「ニホンザルのボス」のようです。
 リーダーと言われる人は「部下のやる気を引き出させて任務を遂行させる人」と思われています。「ゴリラのトップはではリーダー」のようです。
 昔のヤクザのトップのような「面倒見の良い親分」が育たなくなりましたね。やはり、子供のときの「ガキ大将」がいなくなったことが原因なのでしょうね!

目は口ほどにものをいう!

 人と接するとき、相手が「ウソ」を言っているかどうか、どのように見分けているのでしょうか?
 ヒトがまだ言葉をもっていなかった時代、言葉でウソを言うことはできませんでした。すると、ジェスチャーでウソをいっていたのでしょうか?
 他に方法がないので、そうなのかも知れません。しかし、当時でも「目はウソをつくことができなかった」のでしょうね。
 「目は口ほどにものをいう」といいますが、目はウソをついていないようです。ただし、訓練した人を除いてですが!

自然の感情を大切にしているか!

 「自分であれ、他人であれ『気持ち』の理解は、言葉ではできない」と、もと京都大学の学長でゴリラの研究をされていた方が言っておられました。この方はゴリラの集団と一緒に生活をした体験があり、その中で気がついたそうです。
 ゴリラとの気持ちのやりとりができるようになり、その体験をもとに人間社会を見たとき、「言葉」というものは気持ちを正確には伝えていないことが多く、自分が置かれた環境の中で、自分の都合が良いように話しており、本来の自分の気持ちは表現できないもののようです。
 言葉だけで自分の気持ちを考えるようになると、同じように自分の気持ちを正確に捉えられなくなってしまう可能性がありますね。
 やはり、自然の中でいろいろな感覚を磨き、その感覚を大事にしながら「気持ち」というものを摑んでいく必要があるのでしょうね!

初めての町で通りがかりの人に「こんにちは」!

 初めて行った町で、見知らぬ子供に「こんにちわ」と挨拶をされることがあります。鎌倉では「まち案内のホームページ」作りで写真を撮っていたら、中学生の男の子に神社で声をかけられ、「約束した友達が来ないので、町を案内しますか?」と声をかけられ、二時間ほど案内をしてもらいました。
 尾道でも、観光客があまり行かない坂道で、子供達に「こんにちわ」と声をかけられました。こんな子供達に出会うと、その町がとても好きになりますね。
 突然見知らぬ人に挨拶されると、最初はすぐにはこちらから返事ができなかったのですが、少し慣れたからは、挨拶をされたら、いつでも挨拶を返せるようになりました。
 こんな町がどんどん増えてくるとよいのですが!

ついていい嘘、ついてはいけない嘘!

 「ウソ」というものは、「自分の生き方で決まってくるもの」のようですね。ついても良いウソは、相手を気遣う生き方ができているかどうか、で決まるようです。ただ、都会生活では、周りの干渉が少ないためか、自分を成長させるチャンスが少なくなっています。自分の自由を多く手に入れることは、自分の成長にとって、良いことなのか、悪いことなのか、難しい問題ですね!

子どもが自分で解決していくのを見守る!

 秘境と言われる地域の子育てを見ると、子育ての担当は、多くの場合母方の祖母が担当しているようです。その理由は、お母さんは貴重な労働力の場合が多く、そして、祖母は人生経験が豊かで、子供をゆるやかに育てることができることが理由のようです。
 仕事を持ちながら、また、自分の人生にこだわりがある中年までは、「自分」という意識が子育てより優先しがちのため、子供より自分が優先することもあります。子供を自由に遊ばせることができる親は、それほど多くはないのでしょう。
 むかしは、子供に「勉強しろ」と言うよりは、「遊び相手の首から上は絶対ケガをさせるな」などと、しつけていたようです!

道徳感や倫理観が過剰にまでに強まると不幸が!

 アフガンの今後が心配ですね。イスラム社会は一神教で、制約が厳しいため現在の経済社会には適応しにくいのでしょう。シルクロードが機能していた時代は、小さな集団で移動しながら商売ができたのでしょう。その結果、部族社会が定着し、その枠から抜け出した商いが難しかったのかも知れませんね。
 イスラム教は国によって多少の違いはありますが、道徳観・倫理観が、日本人から見ると過剰なまで強いため(日本は宗教については規制がゆるすぎるのですが)、自由主義を基本とした資本主義社会には適応しにくいのでしょう!

自分の弱点に気づかないと!

 自分に余裕がないと、冷静に自分の弱点を見ることは難しいですね。しかし、自分の弱点を冷静に見ることができないと、落ち込んだり、反対に過剰反応を示したり、厄介な状態になりやすいようです。
 パラリンピックで活躍している人は、冷静に自分の弱点を把握し、その対策ができた人達ですね。弱点に冷静に見つめることができると、別の感覚が研ぎ澄まされることもありますね!

自分にとって都合のいい情報!

 情報が溢れている時代になっています。情報の受け手には二つのタイプがあります。「外部統制型」と「内部統制型」です。
 情報を受け取るとき、どちらかというと「結論中心」に受け取る人と、「データ中心」に受け取る人がいます。
 結論中心であれ、データ中心であれ、自分の思い込みをベースとして情報を受け取るのですが、データ中心の方のほうが、思い込みから抜け出すチャンスが少し多いように感じます。
 結論は、「白」か「黒」だけでなく。白に近いグレー、黒に近いグレーもあるので、結論を一つに絞るには注意が必要です。歴史的にも、信じられていた原則が変わった例はたくさんありますね!

学校に無理難題を押し付ける!

 モンスター・ペアレントという言葉が言われ出してかなり立ちました。このような人が多くなった原因はなんだったのでしょうか? ヤクザや暴力団だったのでしょうか。しかし、ヤクザや暴力団はむかしからいましたから違うのでしょう。
 そうするとテレビなどに出てくるコメンテーターなのでしょうか。どうもそんな気がしています。事実や論理の中から、自分の主張に当てはまるものだけを取りだして、あたかもそれがすべてのように主張します。視聴率を上げるためにはやむをえないのでしょう。
 しかし、それを見習う人達が増え、他の意見は聞かず、自分の都合に合う事実・論理だけを主張する人が増えてきたのでしょう。欧米人は自己主張をする人が多いと聞きますが、日本人もそうなってきたようです。
 もっと「曖昧さ」を大事にしてもよいのでは、とも思います!

今後、どれだけの人口を養えるのか!

 地球の人口は、1960年は約30億人、2010年には約70億人になっています。50年で2.3倍になっています。この推移は危険だと思いますが、歴史の結果を見ると、今までは戦争か疫病で解決されています。
 現在この解決策として「昆虫食」が提案されています。「料理」というものは、ヒトの口や消化器官を補助する方法として工夫してきています。その結果、米や麦を食べることができることなり、農耕が発達し、ヒトの増加が可能になりました。今度は、昆虫料理に頼ろうとしているようです。
 なんとかいろいろと料理方法を工夫し、昆虫だけでなく、もっと多くのものを食べるしかないのでしょうね!

「長いものには巻かれろ」がより強くなった?

 アフガンやミャンマーのニュースを見ていると、日本人の「平和ボケ」をどうしても感じてしまいます。ただ、この平和ボケになれる環境を造り上げてきた歴史に、感謝するしかないのでしょう。
 一神教にならず、神様も仏様も同時に敬われる社会、また、天皇がいれば将軍もいるという、ある意味曖昧な社会であることが良かったのでしょう。
 専門家によるある部分に視点をあてた理論一辺倒は、やはり危うい社会になりやすいのですね。
 日本人の持つ曖昧さを大事にすると、平和な社会が続けられやすいのでしょう!

生涯を通じて快活に生きる!

 それぞれの人々が生きている時代の変化は、決して同じではないですね。昔の時代、あるいは、異なる風土の人達のことを考えるとき、かなり努力したとしても、やはり自分の経験で考えてしまいます。真実在の世界を個々人が描くことは不可能ということなのでしょう。そんなことに気がつくことができれば、どんな世の中でも、できれば笑って暮らせば明るく乗り切ることができる、と思います。
 しかし、世間では「オレが言っていることが真実だ」という意識で、あれこれ情報を発信しています(この情報もそうですが)。そのとき自分というモノにこだわってしまうと、視野がどんどん狭くなり、真実在の世界からどんどん遠ざかっていくのでしょうね。
 新コロナ対策でも、医学関係の方がいろいろな意見を言っておられますが、もしかして、ヒアリ対策を行っているような昆虫学者の方のほうが、新コロナ対策においても、有効な提案を行うこともあるのかもしれないですね。そんな人が昔おられ、薬師如来のモデルになったのでしょうかな!

大阪人は決してケチではありません

 大阪人は、モノがもっている何かしらの役立つ性質や程度が、払うお金に対しての値打ちがあるのか、見分ける力が強いのでしょう。ブランドや人気に左右されず、自分の価値観で判断する、ということなのでしょう。
 自分達の価値観を持ち、それが定着したのは、江戸時代に江戸幕府の直轄だったため、幕府の指示に従いながら(従っているフリをしながら)、自分たちの価値観を造り上げたのでしょう。テレビ番組の「水戸黄門」のように、印籠を見せれば、皆頭を下げひれ伏す、とはならなかったのでしょう。「必殺仕置き人」のように、自分たちで解決していったのでしょうか。当然、やりすぎて度が過ぎたこともあったのでしょう。それが学びにつながり、風土として定着したのでしょうか!

その土地の旬のものは健康に良い!

 「地産地消」と言われています。正月を除いて「芋」しか食べない島があるそうです。その島の人達の腸内細菌を調べると、芋の成分から、いろいろな腸内細菌が活躍し、体に必要な成分をいろいろとつくり出しているそうです。これが地産地消の原点にあるのでしょう。

 世間では、いろいろな成分を組み込んだ健康食品が売られています。一人一人の調査委細菌との相性はどのようになっているのでしょうか? 専門家の知識は参考にはなるのですが、いつも常に正解だとはいえないのでしょうね。歴史はそのことを証明していますね!