ヒチ副神の中で唯一の女性の神様「弁財天」。そういえば、縄文時代は女性がボス的な存在だったという話もあります。
一神教では男性が神様のようです。
日本では、戦国時代の前までは、かなり女性が強かったようです。
子孫を残すため重要な立場であった女性。重要視されるのは平和の時代では当たり前なのですが、日本だけなのでしょうか?
2026年のアーカイブ
尾道 寄進された五百羅漢像「天寧寺」
「潮汐現象は」、月の引力によって起きている!
厚木 美女神の木花咲耶姫命を祀る「子安神社」
子安神社(こやすじんじゃ)は、主に安産・子育ての神が祀られている神社です。
木花咲耶姫命=コノハナノサクヤビメ(ヒメ)は、日本神話に登場する女神。『古事記』では木花之佐久夜毘売、『日本書紀』では木花開耶姫と表記されています。ひ孫が神武天皇になるのでしょうか。
神話では、地上に降った天孫・迩迩芸命は、桜の花のように美しい女性と出会う。山の神・大山津見神の娘、木花之佐久夜毘売です。一目惚れして迩迩芸命(ににぎのみこと)が結婚の許しを乞うと、大山津見神は喜び、もう1人の娘・石長比売(いわながひめ)まで添えて送ってきました。
ところがこの石長比売は目を背けるほど醜い。天孫は妹の木花之佐久夜毘売とだけ結婚し、姉のほうは返してしまう。実は大山津見神が2人の娘を送ったのには理由がありました。石長比売には「天孫の命が石のように永遠であるように」と、木花之佐久夜毘売には「天孫が花のように美しく栄えるように」と願いを込めていたので、石を返し花を選んだため、こののち天孫たちは栄えるものの、命は人間と同じようにはかないものになってしまいました。神の子孫であるはずの天皇が人間と同じ寿命であることを説明するための神話です。
人間の人間としての自覚が足りないと!
鎌倉 目の神様として親しまれている「御霊神社」
神社にお参りするときの参拝の作法!
尾道「完璧は災いの元」と石工の祈り「御袖天満宮」
ほとんどの薬は、交感神経を興奮させてしまう!
厚木 弘法大師の伝説、荻野川「秋葉神社」
荻野川の“源氏河原”と呼ばれるあたりは、不思議なことに毎年夏になると、川の水が枯れちょうどサト芋の収穫時期なのにその芋さえ、洗うことができなくなるのだと言います。それには、こんな言い伝えが今でも残されています。
今から約1200年前(8百年代)、全国を行脚していた弘法大師は、ある夏の日、この荻野にさしかかりました。すると、一人の農婦が、源氏河原で取りたてのサト芋をざるで洗っていました。土手の上から、それを見た大師は、イモを洗う農婦の見事さに見とれてしまい、いつの間にか、その農婦の後ろまで近寄っていました。そして、丁寧に頭を下げた大師は、その農婦に「私は旅をしている者です。この辺りは山が多く、宿屋もありません。すまないが、そのサト芋を恵んではくれませんか」と話し掛けました。ところが、その農婦は「このサト芋は石のように硬いので食ぺられません。水も少ないので……」と、大師(頼みを何となく断わりました。しかし、…………
太陽神の不在は、世界に災いを引き起こす!
古代エジプトでは、太陽神を崇拝していました。それは、また「太陽が昇る」ことから、再生を願う文化か生まれたのでしょうか。
それが中国に見られる「不老不死」の文化につながったのでしょうか?
中国の唐の時代には、水銀が不老不死の薬として利用されていたようです。
一方、月を崇拝する文化もありました。シルクローでは昼間歩くとかなり暑いようです。そのため、月が見える時間に歩いていたのでしょうか?
また、海洋民族も月を崇拝していたのでしょうか? 海の潮の満ち引きは、月の動きによって決まります。瀬戸内海の中央部では、満潮と干潮の嵯峨3m以上あり、潮の流れも違ってきます。
そういえば、日本で一番古い物語として「竹取物語」がありますが、かぐや姫が月に帰るとき、不老不死の薬を帝に渡したところ、帝はその薬を富士山に捨てたとか!
鎌倉 開基の北条時宗の廟所「円覚寺仏日庵開基廟」
その時代その時代に解決すべき課題は違う!
尾道 2020年3月に閉館された「文学記念室」
これからは、手に職を持っている人!
海老名 奈良・平安の昔、相模国を守護「有鹿神社」
市内でも大型の一間社流造の建築です。内部は前後2室に分かれ、前室は正面扉口のほかに両側面にも一本引きの建具を入れることや、向拝の造りなど特徴がある珍しい造りです。また、肘木は鋭い錆を持つ絵様肘木で、社殿に独特の印象を与えています。
建立年代は、虹梁の絵様等の意匠から18世紀中頃と考えられています。
大住郡坪之内村の絵師近藤如水(藤原隆秀)が描いたものです。
如水が諸国遍歴から坪之内村に帰ってきた後の嘉永2年(1849)頃の作と考えられています。
豪快な筆法と精緻な構図で描かれており、見るものを圧倒する迫力があります。
有鹿神社付近一帯が遺跡で、発掘調査で弥生時代から中世の遺物や遺構が確認されています。
出土した平安時代の土師器圷に特殊な文字が墨書されていたことから祭祀が行われていたのではないかと考えられています。
(「自然と歴史のさんぽみち」(海老名市教育委員会発行)より転載)
一年中イライラしているわけではありません!
鎌倉 もと光触寺の鎮守社「十二所神社」
この神社は昔、熊野十二所権現社といって1278年(弘安元年)には光触寺の境内にありました。1838年(天保9年)に今の土地を寄付する人がおり、当時30戸の村人の協力で神社を移しました。明治になって神仏分離となり、天神七柱、地神五柱の十二柱の神様をまつり、社名を十二所神社と改め、今日に至っています。
社殿に向かって右手に小さい社が三つ、山の神社・ほうそう神社・宇佐八幡社(うさはちまんしゃ)と並んでいます。鳥居の右に百貫石といわれる石が置かれ、その右奥に神楽(かぐら)殿があります。百貫石は、実際には28貫(約112kg)あり、以前は、祭のときにこれを持ち上げたり、かついだりして自慢した人もいたそうですが、今はためす人もいません。また、左側には地主(じぬし)神をまつる社もあります。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
人体最大の器官は、体重の40%前後を占める筋肉!
尾道 魔除けの神猿さんが「山脇神社」
祭神は大山津美之神(おおやまつみのかみ)山の神とも云う、神仏混淆の影響でむしろ山王大権現として親しまれています。また、かっては榎の大樹があり、榎神社とも称されました。
祭日は、祭神が猿を神使いとするとこらから、旧暦四月の中の日であったのですが、戦後しばらくして、その日に近い五月半端の土曜日を当てるようになりました。現存する最古の記録は、棟札に見える「享保十三年」(1728年)の墨痕があります。
興味深いのは、狛犬に変えて猿の石像、そして、拝殿の四隅(稚児棟)にも、それが見えます(現在は正面の二ヶ所)。最近、更に、備前焼の猿像の寄進が加わり、また、猿の絵馬がかかるようになり、まるで猿づくしの気配なのですが、先述の如く、この祭神が猿を従使とする特色を持ったことからきた庶民の機知の反映でもあるのでしょう。



















