鎌倉 焼き討ち時、日蓮救った白い猿「長勝寺」

 この地は、日蓮にかかわりのある本圀寺(ほんこくじ)の旧地といわれています。この地の領主石井長勝(ながかつ)が日蓮に帰依(きえ)し、日蓮が伊豆に流され、そこから許されて鎌倉に戻ったとき、自分の邸内に小庵(しょうあん)を建て日蓮に寄進したのが、本圀寺のはじまりといわれています。本圀寺が室町時代の初期に京都に移って、この地が廃寺(はいじ)になったのを日静(にっせい)が復興し、山号と寺号をもとの開基である石井長勝の名にちなんで、石井山(せきせいざん)長勝寺(ちょうしょうじ)と名付けられたと伝えています。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より

相手に「意識の矢印」を向けて聴く!

 人の話を聞くとき、聞くだけでなく、つい自分が知っていることを話してしまうことがあります。
 相手に「意識の矢印」を向けるのではなく、自分に矢印を向けているのでしょうか。
 相手の気持ちや知識に「意識の矢印」を向けておきたいですね!

尾道 こんなところが「日比崎 竜王山石仏群」

 この竜王山は広島県尾道市日比崎町にある山で標高144.6mです。(尾道市には「竜王山」という名前の山が5つもあります。)

 そこに、天狗や蔵王権現・不動明王など修験道や密教に関わるの石仏が林立しています。この地も「さびしんぼう」のロケ地となっています。

 竜王山は、四国の石鎚山を信仰する人々の修験道場でした。竜王山の霊場の石垣の上には石造りの石鎚社があり、その周りには石鎚権現や修験道に関わる石仏などが数十体、林立しています。石鎚山は役行者が開いた神仏習合の修験の道場で、石鎚権現として全国で信仰を集めていました。

自分の価値観だけで他人を判断するのは?

 情報化社会になればなるほど、個々人の「個性がいろいろあって良い」という思いが必要ですね。
 社会に出、出来るだけ多くの人達と接する場を経験すると、多様な価値観をに接することができます。
 しかし、社会で接する人が少ないと、価値観が狭くなってしまうようです。その結果、一方的な価値観が養成され、その視点で情報発信をしてしまいます。
 情報をネットで受け取る側も、現在ネットの情報提供側も、ユーザーの視点に沿って情報提供になっており、どんどんユーザーの視点を狭くしてしまうようですね!

厚木 古くは「赤城明神社」といいった「依知神社」

 祭神:赤城大明神(あかぎだいみょうじん)

 縄文弥生の往古より遠い祖先は、盤筒男命を祭神に依知神社を創建し、郷土の開発に尽力して来た。平将門が関東平定のおり、当社に参詣し相模川氾濫の苦難を眼前にし、赤城山神馬献進の託宣を給いたちまち堅牢なる護岸の完成が実現したとのこと。
 このことに感謝感激した 氏子は、将門公の御霊を相殿にして937年社殿を再建し、赤城明神社と称した。
 源頼朝が鎌倉幕府を創設のとき、10万余坪に及ぶ 社領を寄進したという。その境内は、祭り競馬をした所を馬場、大鳥居のあった所を鳥井という地名にするほどの広大なる土地であった。

一つの知識に縛られず、別の選択肢を考える知恵!

 「知識」に縛られると、間違うこともあります。五感で得た情報で判断すると、間違いが少なくなると思います、しかし、学校教育は知識偏重ですから、難しいですね。
 AI情報も同じような答えを出すのでしょうか?
 AIは、その場しのぎには貢献しそうなので、うまく使うと便利なのでしょうね!

鎌倉 明治の神仏分離で静かな寺に「寶善院」

 宝善院(真言宗大覚寺派)は、加持山霊山寺・泰澄山瑠璃光寺という2つの山号寺号をもち、院号が宝善院。
 開山の泰澄は、「越の大徳」(越前(福井)・越中(富山)・越後(新潟)で並ぶ者のいないほどの徳の高い僧)と呼ばれていた。加賀の白山を開いた人物。
 江戸時代には、この寺の僧が龍口明神社の別当に任じられたこともある。
 村人の信仰を集め栄えたが、明治の神仏分離によって、静かな寺となった。
“越の大徳” 泰澄大師の十一面観音伝説がいきるお寺さん腰越にある真言宗のお寺さんです。腰越の海近くの山裾にあり、とても静かで清々しい空気があります。白山信仰の神の山、白山を開き“越の大徳”といわれた泰澄大師が開いた寺院としても存在感があります。

自分にしか関心のないエゴイスト!

 他人の利益をまったく考えようとしない人、自分のカラのなかに閉じこもってしまう人、これだと「人を動かす」には大変です。 その対策として、「報酬を与える」という方法が生まれたのでしょうか?
 報酬を一部の人に与えると、争いのもとが生まれてきます。そして、その争いを抑えるため武力が生まれたのでしょうか?
 多くの人達の利益を優先するため、民主主義が生まれたのでしょうか?

尾道 本来の本堂がない「宝土寺」

 開基は融海意観が1345~1349年の頃に開いたと伝えている。本尊は阿弥陀如来。1489年の古い記録には、「大日本備後御調群栗原保尾道之浦御所崎宝土寺之を」と記している。
 このお寺さんは本来の本堂がない(敷地のみ)。
 かわいそうなことに本堂の建設資金がたまったとき、明治になり藩札が使用不可になり、価値がなくなってしまった。そのため、本堂を建てることができなくなってしまった、とか。

「倭冠」は日本人の海賊集団?

 「海賊」という意味は、①襲って財貨を強奪する盗賊、②水軍(水上の軍隊)の異称、と辞書にあります。
 倭寇は襲って財貨を強奪する盗賊のようですね。
 一方、中世の村上水軍などは、普段は水先案内(村上水軍のいた今の「しまなみ海道」あたりは、瀬戸内海の中央で、干満の差が3m以上あり、干潮や満潮の時間帯を除くと、潮の流れが速く、海底の岩が船底に当たるか、また、どこが本州なのか島なのか、分からないので、水先案内が必要でした。
 ただ、戦になると傭兵として利益を得る集団でした。いわゆる比叡山などの僧兵と同じような立場だったのでしょう!