一ヶ月分の雨が一日で降るというような豪雨!

 最近、集中豪雨がよく発生します。大昔、国境がない時代の大陸では、より住みやすい地区に移動していたのでしょうね。
 その影響がロシアには残っているのでしょうか?
 日本は、島国で山が多く簡単には移動できません。いま住んでいる場所で、環境の変化に対応せざるを得ません。
 その結果、歴史を大事にし、いろいろと工夫して生活せざるを得なかったのでしょうか?

福山 鞆 創建から五回も焼けた「静観寺」

 創建は806(大同元)年、最澄によると伝えられています。当時は、7000坪の大敷地に七堂伽藍が建ち並んで、五重塔も天を衝き、たいへんに栄えていたといいます。
 のちの小松寺が境内に建立されことからも静観寺がいかに大寺院であったかを示しています。
 しかし、相次ぐ戦乱や火災によって、創建から千二百年の間に五回も焼けています。多くの文化財は焼失してしまいました。残念ながら現在では往時の栄華を物語るものは残されていません。

 それでも、この「静観寺」はしっかりと命脈を保ち、今でも、鞆一番の古刹として人びとに愛され続けているのです。時が止まったような、ほっと落ち着けるお寺さんです。

自惚れ屋と恩知らずは、かならず落ちていく!

 自分を高めたいという思い、そして、自分に自信がついてきたと思い始めると、自尊心が強いと自惚れてしまうことがあります。
 それを抑えるため「謙虚」という言葉が生まれたのでしょうか?
 社会の中でうまく暮らして行くには、いくら自分に自信があっても、「謙虚」で生きていかなければ、自惚れ屋として見られてしまいます。
 なかには、自信がないのに自惚れ屋でいる人もいますが!

鎌倉 北条氏の氏寺であった「浄光明寺」

 北条氏六代執権・北条長時が1251年に創建して、浄土(諸行本願義)、真言、華厳、律の四宗兼学の寺として、開山に真阿(真聖国師)を迎えた。真聖国師は法然からつづく善導大師本願の弟子であったので、創建当時は浄土宗の寺でした。(現在は京都泉涌寺に属する真言宗の寺である。)

 1335年、一時足利尊氏がこの寺に引き篭り、後醍醐天皇に対し挙兵する決意を固めたという。尊氏、直義兄弟の帰依は厚く、尊氏による寺領寄進、直義による仏舎利の寄進などが行われたことを書いた古文書が残っています。

「よし、任せておけ」と動いてくれる人、いますか?

 自分ですべてやろうとする人、大事な仕事とでも人に任せられる人、違いはどこにあるのでそうか。
 自分の出来ることを正確に把握し、また、任せる人の出来ることを正確に把握できる人なのでしょうか。
 それとも、ただ面倒がる人なのでしょうか。
 子ども時代から、五感が発達した人は、自分が出来ること、出来ないこと、正確に判断できるようです!

厚木 血から生まれた剣の神を祀る「春日神社」

 1415年勧請、1706年再興。

祭神:武甕槌命(たけみかずちのみこと)
相殿:木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、天児屋命(あめのこやねのみこと)

 富士浅間神社の祭神である木花開耶姫命(このはなさくやひめ)が、火のなかで出産した故事にちなむといわれています。
 炎の中で無事に三人の子供を出産した木花之佐久夜毘売命もかつては安産の神として知られていました。浅間神社の主祭神として祀られているので、安産をお願いすればついでに火伏のご利益も付いてくるはずです。

津波が予想されると「石橋を叩いて渡る」など出来ないよ!

 最近、地震が多発しています。すると津波が派生することがあります。
 海が満潮の時の津波と、干潮の時の津波は、地区によっては被害に差があると思います。
 干満の差が50cm程度の地区と、瀬戸内の中央部のように3m程度ある所では、干潮か満潮かにより津波の被害に差があるのでしょう。津波情報ではどのように伝えられるのでしょうか?

尾道瀬戸田 紫田勝家の弟?が再興した「法然寺」

元祖大師法然上人 御遺跡
安芸国 瀬戸田 浄土宗 法然寺

 法然上人(浄土宗の開祖)が、四国に御流罪になったとき(鎌倉時代の初め、今から八百年余り昔)、その徳を慕われた後白川法皇のの皇女 如念尼(にょねんに)公は、この島の南側、御寺(みでら)の光明坊にご来寺になって、讃岐(現在の香川県)から上人をお招きになりました。

 上人は当地に庵を結び、御寺までお通いになって九十日の間、如念尼公に說法、ご教化されたと言われています。
 その後三原の仏通寺(臨済宗)の末寺となっていた時期もあるようですが、江戸時代の初め頃、慶長年間(1607年)に法然上人の御遺跡が荒廃していることを惜しんだ美作涅槃寺(ねはんじ)の一道和尚(紫田勝家公の弟と伝えられています)によって再興され、伽藍が整えられました。本堂、庫裡はいずれも慶長年間の建築です。

劣等感の深刻な人は、「賞賛」を求める!

 何かを櫃から頼まれると、面倒に思うか、嬉しく思うか。
 これは、劣等感に依るのか、自分の成長に依るのか、どちらなのでしょうか?
 頼まれる内容に依るのでしょうが、頼まれる内容が難しい内容であれば、自分の成長を喜ぶことができますね!

愛川 「私は半僧です」と答えた「勝楽寺 半僧坊」

 半僧坊や田代の半僧坊と呼ばれている勝楽寺。遠州奥山方廣寺(静岡県浜松市北区)より勧請した半僧坊大権現が祭られていることから、「田代半僧坊」と呼ばれています。

 半僧坊大権現は、後醍醐天皇の皇子「無文元選禅師」が方廣寺へ御入山の際に出会った白髪の老人を弟子として、日々の作務等を怠ることなく随侍しました。

 禅師が「おまえは半ば僧形である」と言うと、老人は「私は半僧です」と答えたことから半僧坊と呼ばれるようになったそうです。

 その後、無文元選禅師が亡くなると、姿を消したと言われています。