尾道 浄土寺山鎖場下から(登山道経由)不動岩へ

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 鎖場の入り口の神社の前を過ぎ、狭い橋を渡り右に登ると、道は急になり、そのころから左右に点在する石の三十三槻音が稚拙ではあるが、ふと足をとどめさせ、単調な山道にうるおいをもたせひと息つかせる。
 明治初期につくられ、境内にあつたものを、昭和四十五年の春観音にさいし頂上の峯の薬師まで適当な間隔においたもので浄土寺の新所を「観音こみち」と名付けてはと。
「郷土の石ぶみ」(1973年 山陽日日新聞刊)より

血液中の栄養素が過剰になると!

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 栄養素に関する情報はいろいろと出てきます。しかし、特定の条件で、初めて成立するものなのでしょう。極寒の地域、あるいは、灼熱の地域など、人々はいろいろな地域に住んでいます。当然、食べるものも違っています。その結果DNAもその環境に合ったものに変化しているのでしょう。自分に合った食べ物あは、やはり育った環境で決まると考えた方がよいのでしょう!

鎌倉 海風がここちよい「小動神社」

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 小動の地名は、風もないのに揺れる美しい松の木「こゆるぎの松」がこの岬の上にあったことに由来しているという。別の由来では、この岬の鼻に枝を差し出した松があり、つねに海風に揺れていたため「小揺ぎの松」といい、それが地名になったともいう。

動脈硬化を促進する欧米食!

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 和食は、いろいろな食材を、箸を使って、時間をかけてゆっくり食べることが、健康に良いのでしょう。その習慣になると、健康な状態が永く続いていくのでしょう。それに地産地消ならば、収穫したものを、そのまま(冷蔵や冷凍しないで)新鮮な状態で食べていると、より健康に効果的なのでしょう!

尾道 明治時代に英語塾があった「正授院」

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 外留学の先覚者土居咲吾が、この正授院でも英語塾を開いて後進を導いた。
 土居咲吾は長尾幸作と云い、開業医長尾俊良の長男として天保六年(1835)に生れた。かねて父から洋学の優れていることを聞かされており、21才のとき京都の広瀬元斎に師事して蘭学を、さらに25才、江戸に下り坪井芳洲に学んだが、このあと独学で英話を修得、それで満足できず、勝海舟の卒いる咸臨丸へ便乗を許され、福沢諭吉らと共に万延元年(1860)我が国を発しアメリカに渡り英学を修めて帰国した。

治療しなくてはならない「夢」もある!

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 「夢うらない」は深層心理が現れるともいわれています。ただ、夢の中で他人に当たることは、自分の中にストレスが溜まっており、そのはけ口がなく、夢の中で発散しているのでしょう。カーナビのように、寝てる間になんらかの変化があると、自動記録し、その画像を自動的に分析する装置が、いつかできそうですね!

はるかな昔から動脈硬化が!

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 動脈硬化は、ミイラの時代からあったのですね。もっともミイラにされる人はお金持ちなのでしょうから、動脈硬化になっても当然なのでしょう。平安時代の美人は、ふっくら、ぽっちゃり、なのでしょうから、やはり動脈硬化はあったのでしょう!

尾道 墓地に猿の座像「福善寺」

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 守護大名山名宗全側近太田垣光景の子孫、但馬国城主太田垣因幡守の孫斐守が出家、名を行栄法印といい1573年尾道を訪れ久保町に道場を開き布教に勤めた。1630年現在地丹花の丘陵に寺を移し、本願寺直参末寺「一家衆」に加えられ旧九条関白家の菩提所格寺院となった。
猿の座像 — 高さ65cmばかりの桃をかかえた日本猿の座像。剽軽な顔、肩から腰に流れる美しい線、軽妙なタツチ、石の街ではならの逸品。

分け合うという力が弱いと亡びる!

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 食べ物に困ったときでも、「分け合う力(助け合う力)」が「生き残りの力」ですね。しかし、日本の中でも助け合う風土は地域によって差があるようです。四国のように、お遍路さんを受け入れる文化があるところは、「与えっぱなし」「貰いっぱなし」が当然で、ただ、ただ無心で与える風土が出来ているようです。しかし、地域によっては「恩を与えたんだ」と、自己満足したい人が多い地域もあるようです!

尾道 童歌で“かたい門は持光寺”の「持光寺」

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持光寺の石の門
 「ええ門は福善寺、かたい門は持光寺」…童歌までに唄われた同寺の門はそのものズバリ、主体だけ17個からなる花崗岩を組みあわせトンネル状に築きあげた石の門。全巾が5m、奥行き3.5m、高さ3.5mで、通路が巾3m、高き2.8m。これだけの石を据え微塵の狂いを生じてないあたり、基礎に相当の配慮がはらわれているのだろう。約三百年前に建てられたものであろうが、当時の築構技術の粋をあつめた“石の町”ならでの逸品。(「郷土の石ぶみ」 明治31年5月10日創刊 山陽日日新聞社 より)