人を助けるのが大好きな人がたくさんいます!

 「自由に考える」という習慣を、いつのまにか失っているのでは、と感じています。小学校から「テストで答えは一つ」という習慣がつき、マスコミでは専門家の解説がほとんどになり、専門家達は答えは一つ、と考えがちです。そんな情報ばかりが周りに溢れていると、自分が自由に考えたと想っても、他人の考えに支配されているのでしょう。
 日本以外では、「答えは一つ」しか正解がないのですが、日本では「あれも正しい」、「これも正しい」ということが許されています。一人の人が、お寺に行くのも良い、神社に行くのもいい、「曖昧」が許されているのです。
 だからこそ、いろいろな知識を自由に集め、その情報を組み合わせ、昨日考えていたことと、今日考えることは、違っても良いという自由があります。
 Aさんとは“こう”、Bさんとは“そう”と、それぞれの場面に応じて良い方法が選ぶことがある程度は許されています。
 ただし、その自由な対応の背後には、多くの知識があればあるほど、的確な対応になるのでしょう。いくつになっても、自分の得意分野以外の勉強も大事なのでしょうね!

言葉の発達こそ感受性世界の入り口!

 むかしは「環境に適応する能力」が、最も重要な能力だったのでしょう。しかし、現在は言語による知識になっています。それも記憶力が重視されていました。
 最近は、言語による知識には変わりありませんが、ネット検索やデータベースによる知識になってきました。
 その結果、情報を組み合わせながら、より深い知識、固定観念を打ち破る知識などにシフトしつつあるようです。
 しかし、情報を組み合わせ活用するために必要とされる能力は、言葉と同時に、環境に適応するために養った経験なのでしょう。子供時代に多くの大人と接した体験、自然の中で遊んだ経験などが大切になるのでしょう。
 ところで日本語は抽象的な能力を身につけることに適しているのでしょう。似たような言葉がたくさんあり、また、同じ言葉でも、意味が異なっていたり、また、例えば「ニオイ」でデータベースを検索すると、「……において……」などが出てきて、もとの「臭い」とはまったく違った発想にたどり着いたりします!

学校に無理難題を押し付ける!

 モンスター・ペアレントという言葉が言われ出してかなり立ちました。このような人が多くなった原因はなんだったのでしょうか? ヤクザや暴力団だったのでしょうか。しかし、ヤクザや暴力団はむかしからいましたから違うのでしょう。
 そうするとテレビなどに出てくるコメンテーターなのでしょうか。どうもそんな気がしています。事実や論理の中から、自分の主張に当てはまるものだけを取りだして、あたかもそれがすべてのように主張します。視聴率を上げるためにはやむをえないのでしょう。
 しかし、それを見習う人達が増え、他の意見は聞かず、自分の都合に合う事実・論理だけを主張する人が増えてきたのでしょう。欧米人は自己主張をする人が多いと聞きますが、日本人もそうなってきたようです。
 もっと「曖昧さ」を大事にしてもよいのでは、とも思います!

自分の言動を他の人の視点でとらえる!

 一般的には、「学校の成績が良い=記憶力が良い」と考えているのでしょう。そのため、一流大学を出ても、若いうちは大学のブランドがある程度通用するのですが、年齢を重ねるにつれて通用しなくなります。特に言動が良くない場合、大学のブランドが高いほど、教養(広い文化的な知識によって養われた品位)のレベルを低く見られてしまいます。
 これからは、新コロナの影響、そしてAIの進歩で、社会で必要とされる能力が変化するため、知識の記憶だけでは成り立ちません。現状をよく観察し、多彩な情報を組み合わせ、何かしらの智慧を見つけなければならなくなってきたようです!

子どもに勉強させようとするなら!

 勉強とは「ある目的のための修業や経験をすること」、学ぶとは「経験を通して知識や知恵を得ること」、という意味もある。「経験・体験」に知識が結びついて、初めて本当の知識になるのでしょう。これはテストでは評価できないですね。そのためか、「経験・体験」というものが軽んじられてきたのでしょう。
 子供達が、「自分が見たもの」、「自分が体験したこと」、これをどんどん増やしていくことが、大人の役割なのでしょう。むかしは、都会でも大家族が多かったので、子供は多くの大人達からいろいろな体験のチャンスを得ていたのでしょう。核家族は、子供の本当の意味の勉強のチャンスを少なくしているのでしょうか!

自己投資は年収の1割以内ならOK!

 出身大学や資格に頼る時代は終わりつつあるようです。AIの進歩は、予測できないほど早く、知識をベースにした資格は、不要になってしまう可能性が強くなってきています。
 AI中心の時代になった時、どの言語が専門分野において有効か、という現象も起きてくるのでしょう。単純な言語はAI化は行いやすいのでしょうが、機能的にはどうなのでしょうか。
 自分で、本をもとに8万件以上の日本語のデータベースをもとに、単語検索をしながら、いろいろな知識を組み合わせ遊んでいる私からみると、日本語はAIには難しい部分が多い面があるようです。また、地域・時代によって意味の解釈が少し異なるため、より難しいのでしょう。
 ただ、この面が、より面白く、意味深いものができる可能性を秘めていると思われます。

女性の学びは男性と異なった特性を持つ!

 「学び」は長続きさせたいもの。できれば一生学び続けたいものです。人間、前頭葉が未発達、または老化すると、自分の制御が難しくなってしまいます。新コロナの伝染防止対策がうまくいかない若者、カラオケで歌いまくる高齢者、ともに前頭葉の働きがうまく機能していないのでしょうか? 元気であり続けるには、からだを動かし、足から、あるいは、手から、そして皮膚からの情報で、からだのあちこちを刺激することが大事なのですが、「学び」で前頭葉の刺激を続けることも大事です!

社会に出てからは学びの質を変えること!

 定年退職後は、特に学びの質を変えなければなりません。組織の中で身についた思考を続けていると、いわゆる“老害”という状態になりかねません。定年後、年月がたつにつれ、ひどくなっていきかねません。過去に蓄積した“思い込み”を捨てるためには、まずは学ぶこと、それも、「学びの質を変える」ことが必要です。たた注意しなければならないことは、定年になってからでは少し遅いようです。少なくとも、定年の五年前から、できれば十年前から学びの質を変える準備が必要だと思います!

「考えること」を教えることはできません!

 向上寺は応年七(1400)年地頭・生口守平公が 瀬戸田潮音山の観音の霊場に一寺を建立し、臨済宗 仏通寺派開山勅特賜仏徳大通禅師愚中周及大和 尚(1323~1409年)を迎えて開きました。 聖観世音菩薩(秘仏)を本尊とし、古来、災害鎮圧と興隆繁栄の祈願寺として 崇敬されました。
 伽藍は明治6年に焼失、本堂は三原近在の寺院解体による古材で 再建しましたが、その後、老朽破損・解体し、現在は仮本堂にて 創建六百周年の復興を目指しています。

生きる力や意欲は家庭教育で!

 学校での子供の評価が、テストの点数中心主義になって、三世代ほど経過してきました。その結果、正しいことは一つという、点数主義が社会に定着してしまいました。ホモサピエンスが生き延びていくためには多様性が必要です。正しいことは一つ、という点数を重視する教育がどの程度役立っているのか、充分な検証はされていません。ただ、社会環境や自然環境の変化に対応していくのは、偶然の結果とすれば、それほど考える必要はないのかも知れませんね!

“傷つくのを感じない”ようになると!

 いつからでしょうか?「完璧」を求めるようになってきました。テストで100点至上主義のためでしょうか。スペシャリスト指向のためでしょうか。みんな気がついているのでしょうが、テストの100点の回答は、必ずしも自分生きている間において、正解であり続けるとは限りません。スペシャリストもそうです。その仕事を辞めた途端、いかにもの知らずで視野が狭かったと気づきます。もっと、「出来損ない」を大事にしたいですね!

日本は一億総利己主義を確立?

 日本では、ここ150~160年ほどの間に、大変革が起こりました。また、この80年ほどの変化は、人類の歴史上初めて変化が起きてしまいました。ただ、この変化には人々がついて行けるスピードでの変化でした。ただし、社会は、変化について行くのが精一杯で、社会を整えることは出来ていません。そのツケが、今回の新コロナウイルスの流行で、やっと気がつく機会が生まれたようです!

教養は、鍋料理である!

 知識、それも得意分野の知識を求めることが優位な現代。人同士のつながりに「希薄」を求めた現代。その結果からか、現実をありのままに見る目が弱くなっているようです。外部から入手できる言葉による情報を求め、その情報をもとに判断する人が多くなっています。自分の目で現状を捉え、その五感を通じた情報をもとに判断する力が衰えてきたようです。これは、情報を発信する側もそうですね。例えば、今回の新コロナウイルスについて「密接を避けましょう」と言ってきました。「密接」=すき間もなく,ぴったりとくっついていること、です。この言葉で予防対策と伝えられると、「10~30cmも離れていればいいだろう」と思った人もいるのではないでしょうか。「伝達の場」であるマスコミも、プロとしての英知を失ってきたのでしょうか?

大人は「勉強」という二文字にとても弱い!

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 大人は、なぜ「勉強」を重要視するのでしょうか? いままでに学校で学んで知識の何%を利用していますか? 基礎になる知識だから、それほどその知識は利用されなくても良い、のでしょうか? テレビでよく見かける「さかなくん」、どれほど学校での知識を利用しているのでしょうか? ネット検索が普及し、調べる方法が身につく程度の勉強ができれば、後は、見つかった情報を組合せ、何らかの「気づきを得る」方法を、練習したほうが良いのではないでしょうか!

基礎学力は「読み書き計算」!

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 想定外の災害が日常化する時代に入り、「点数には表れない学力」が大事な時代になったようです。「点数に表れる学力」は”今までの事実”であり、想定外の事態には対応できません。これからは、「今までの事実+今までの体験+今現在の情報⇨想像する力=これから想定される事態」を考えることができる力が必要ですね!