海老名 奈良・平安の昔、相模国を守護「有鹿神社」

 市内でも大型の一間社流造の建築です。内部は前後2室に分かれ、前室は正面扉口のほかに両側面にも一本引きの建具を入れることや、向拝の造りなど特徴がある珍しい造りです。また、肘木は鋭い錆を持つ絵様肘木で、社殿に独特の印象を与えています。
 建立年代は、虹梁の絵様等の意匠から18世紀中頃と考えられています。
 大住郡坪之内村の絵師近藤如水(藤原隆秀)が描いたものです。
 如水が諸国遍歴から坪之内村に帰ってきた後の嘉永2年(1849)頃の作と考えられています。
 豪快な筆法と精緻な構図で描かれており、見るものを圧倒する迫力があります。
 有鹿神社付近一帯が遺跡で、発掘調査で弥生時代から中世の遺物や遺構が確認されています。
 出土した平安時代の土師器圷に特殊な文字が墨書されていたことから祭祀が行われていたのではないかと考えられています。
(「自然と歴史のさんぽみち」(海老名市教育委員会発行)より転載)

一年中イライラしているわけではありません!

 何かに裏切られると、イライラが続くものです。これを鎮めるのは大変ですね。
 今はなにもなくても、ときどき思い出して、なかなかイライラは消えません。何かに集中しているときは思い出さないのですが。
 良かったことより、悪かったことを思い出すのは名座なのでしょうか?
 人間が生き残るために身につけた技なのでしょうか?

鎌倉 もと光触寺の鎮守社「十二所神社」

 この神社は昔、熊野十二所権現社といって1278年(弘安元年)には光触寺の境内にありました。1838年(天保9年)に今の土地を寄付する人がおり、当時30戸の村人の協力で神社を移しました。明治になって神仏分離となり、天神七柱、地神五柱の十二柱の神様をまつり、社名を十二所神社と改め、今日に至っています。
 社殿に向かって右手に小さい社が三つ、山の神社・ほうそう神社・宇佐八幡社(うさはちまんしゃ)と並んでいます。鳥居の右に百貫石といわれる石が置かれ、その右奥に神楽(かぐら)殿があります。百貫石は、実際には28貫(約112kg)あり、以前は、祭のときにこれを持ち上げたり、かついだりして自慢した人もいたそうですが、今はためす人もいません。また、左側には地主(じぬし)神をまつる社もあります。
 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より

人体最大の器官は、体重の40%前後を占める筋肉!

 ウォーキングは大事なようです。でも「歩き方」はいろいろあるようですね。
 車が使えない坂道の多い町では、腰の筋肉を使い足を前に出している人が多いですね。
 また、膝のクッションを多く使う人、足の不備先をうまく使う人など、舗装されている道で生活しているか、未舗装の道を多く歩いているかで違うようです。
 昔の人は未舗装の峠路を歩き、また、歩く距離も30kmなど平気だったようです。
 鎌倉時代の「十六夜日記」では、京都から鎌倉まで、未舗装の峠路などを、お母さんが16日で歩いているのでしょうか!

尾道 魔除けの神猿さんが「山脇神社」

 祭神は大山津美之神(おおやまつみのかみ)山の神とも云う、神仏混淆の影響でむしろ山王大権現として親しまれています。また、かっては榎の大樹があり、榎神社とも称されました。
 祭日は、祭神が猿を神使いとするとこらから、旧暦四月の中の日であったのですが、戦後しばらくして、その日に近い五月半端の土曜日を当てるようになりました。現存する最古の記録は、棟札に見える「享保十三年」(1728年)の墨痕があります。
 興味深いのは、狛犬に変えて猿の石像、そして、拝殿の四隅(稚児棟)にも、それが見えます(現在は正面の二ヶ所)。最近、更に、備前焼の猿像の寄進が加わり、また、猿の絵馬がかかるようになり、まるで猿づくしの気配なのですが、先述の如く、この祭神が猿を従使とする特色を持ったことからきた庶民の機知の反映でもあるのでしょう。

寄席で笑いを堪能、キラーT細胞が増えていた!

 O157の対策研究が各国で行われた結果、数日で新しいウイルスを作ることができるようになったようです。
 ということは、病原菌を兵器として使う技術が出来上がったということですね。
 15世紀にヨーロッパがアメリカ大陸を征服したときもペスト菌が使われたようですが怖いですね。
 太平洋戦争の時、日本は細瑾をアメリカにばら撒こうとして「風船爆弾」が開発されましたが、途中で細菌ばらまきの禁止令が出、爆弾に変更されましたが、ウイルスのばらまきが起きてしまうと…………!

厚木 武田信玄に焼かれたことがある「妻田薬師院」

 睦合地区妻田の北端に、楠を交えた森があります。小字を白根(しらね)といい、ここに薬師堂が建てられています。この薬師堂は、遍照院東光寺の境内にあり、古くから目の病に効く薬師堂として、妻田地区など近郊の人たちの信仰を集め、今でも秋祭りを始め、年の暮れや正月には、大勢の参拝客でにぎわっています。この薬師堂がいつ頃建立されたのかはっきりしませんが、一説によると奈良時代ではないかと言われています。江戸時代に書かれた「妻田薬師縁起」によりますと、伝説と史実を織り交ぜる面白い話が数多く残っています。

事業は、才覚と商才さえあればうまくいく?

 「専門性」が重要視されています。しかし、今のアメリカを見ていると、専門性だけでは破滅する危険性もあるようです。
 才覚と商才だけに身をまかせてしまうと、人々とのつながりが薄くなり、社会性もなくなり、哀れな結果にたどりつく可能性が大きくなっていくようですね!

鎌倉 関東大震災の津波がここまで来た「延命寺」

 下馬一交差点の近くにある浄土宗寺院。山号は帰命山。
 もと安養院末。開山は専蓮社昌誉能公。寺史は不明。鎌倉幕府の第五代執権で名執権とうたわれた北条時頼の夫人により創建されたと伝えられている。北条時頼の夫人の念持仏と伝える身代地蔵(裸地蔵)が有名で、江戸へ出開帳したこともある。
 なお、赤穂浪士の岡島八十右衛門の三男が住持したと伝え、義士の画像もあったというが、いまはない。
[文献]『市史』社寺編

日本中で神さまが誕生する大祭の日!

 夏になると、神社のお祭りが多くなってきます。最近は温暖化のため、日程を変えるところも出ているようです。
 お祭りの場所は、できればクルマが通らないところがよいのですが、そうもいきませんね。
 しかし、商店街などでクルマが通らない道があると、お祭りが盛んですね。
 商店街と並行する道があり、普段から歩行者専用の時間帯があると、にぎやかな祭になりますね。
 ところで、昔の人に比べ現代人は体力が落ちています。今の体力に合わせていかないと、けが人など事故が起きやすいので、今の体力に合うように、祭りも変化していく必要があるのでしょうね!