批判しがちになることは、なかなか抜け出せないようですね。
ネットなど(国会でも)批判が溢れています。
でも、ほめることの重要性はそれほど意識されていない場合が多いようです。
秘本後は、ある意味「曖昧」を許容する言葉です。解釈の幅が広く、たとえ批判であっても、少しは穏やかにしてくれるようです。
しかし、批判するよりは、ほめるほうがいいですね!
6月 2026のアーカイブ
福山 鞆 多彩な歴史の足跡が刻まれる「小松寺」
延元元(1336)年二月、足利尊氏が九州から大挙東上の途中、弟直義と当寺に宿陣して軍義した。光厳院の院宣を受け錦旗を掲げ意気衝天した。
暦応二(1339)年、鞆合戦。南北朝期当寺に本営を置きし北朝軍と大可島に陣する南朝軍との激戦は十数日にも及び、旧記什物は勿論殿堂灰燼に帰し、大永年中安国寺六世曇叟華禅師再建し禅刹とす。
※暦応三(1340)年とも・・・
大永年中(1525年頃)、安国寺六世・曇隻華(どんそうか)禅師が再建し禅刹とした。
天正三(1Z75)年、京を追われた15軍・足利義昭が、当地に宿陣の毛利輝元を頼って当寺に愚居したが、羽柴秀吉と毛利の和議が成立するや、常国寺(山を隔てた熊野町)に移住した。
古人曰く「足利は小松に興り、小松に亡ぶ」といわれた。
長期間、抗生物質の服用を続けていると!
尾道 江戸時代の豪商橋本家の別荘「爽籟軒庭園」
諺に「西風と夫婦喧嘩は夜になると止む」と!
鎌倉 七堂伽藍の大寺だった「海蔵寺」
海蔵寺は臨済宗建長寺派の寺である。この寺は、1253年に鎌倉幕府六代将軍宗尊親王の命によって、藤原仲能(道知禅師)が願主となって、七堂伽藍の大寺を建立したが1333年5月、鎌倉滅亡の際の兵火によって全焼してしまった。
1394年4月、足利氏満の命により上杉氏定が再建し、源翁(げんのう)禅師を開山に招いて菩提寺とした。
創建の頃、毎夜近くの山麓から悲しげな赤子の声が聞こえ、声を頼りにその場所に行くと、古い墓石があり、その下から鳴き声が聞こえるようで、しかも、まわりには金色の光がもれ、芳香が漂っていた。墓石に袈裟をかけ、読経すると鳴き声はやんだ。翌日、その墓所を掘ると、薬師如来の頭部があらわれた。
この頭部を、新しく造立した薬師如来像の胎内におさめ本尊とした。61年ごとに胎内像をを公開しています。
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厚木 秀吉の小田原攻めの際、兵火に「法界寺」
北条氏直が荻野郷の地頭松田康長に命じて造営。秀吉の小田原攻めの際、兵火にかかり以前のような繁栄は失われたことが相模国風土記稿に記されている。
北条 氏直(うじなお)は、相模国の戦国大名で小田原城主。後北条氏の第5代当主。父は北条氏政、母は武田信玄の娘・黄梅院。父と共に後北条氏の最大版図を築き上げたが、豊臣秀吉による小田原攻めで、後北条氏の関東支配は終焉を迎えた。
この法界寺は、明治期の県央教育界に大きな足跡を残している。1872年に「学制」が発布され、それまで県央地区に存在した41の寺子屋と4つの郷学校が廃止され、「尋常小学校」が開設された。 この廃止された学校に替わり法界寺では住職・曽我明随により私塾が開設されている。








