七沢字観音谷戸2741番地の奥まった所にあり、奈良時代後期元正天皇(715~723)のころ創建と伝えられます。その後土御門天皇の時不幸にも野火にて焼失し廃寺のままであったが、日向一ノ沢の浄発願寺の中興開山、木食空誉禅阿上人が七沢鐘ケ嶽に創始した禅法寺と共に開山された天台宗の寺です。
本尊に動物霊から守ってくれる馬頭観音菩薩を安置したのは、上杉定正の愛馬日影を祭ったことによると伝えられています。いずれにしても山村ゆえ諸運搬のため多くの馬を飼っていた先人達が、馬の安全とその供養を兼ねたものであり、像は頭上に馬頭を載くところから畜生道の尊と云い、3月18日には盛んな仏事を挙行しました。古くは境内で草競馬が開催されたこともあるほか、堂内に絵馬数点が奉納され、馬頭観音碑も建立されています。また堂内には数少ない宇賀神の石像(蛇形)も祭ってあります。
「厚木の観光ボケットブック」(厚木市観光政策課発行)より
4月 2025のアーカイブ
日常的に心がけることとしては、食事が大切!
福山 鞆 法華経こそ仏の真の教えと日蓮宗「妙蓮寺」
慶長年間(1596~1614)に実相院日玖が創建したと伝えられています。実相院日玖は元気で充実した年頃に日常のつきあいを断ち、法宣寺十四世恵性院日親の弟子となり、修行し、法華経を読すること40年、一万二千余巻におよんだ。
福山藩主・水野勝成殊勝に願い、寛永の末(1644年頃)今の地を賜い、三人扶持十一石を賜る。
本堂は、主として浄財を募り建立。上京し、本山から山号・寺号を請受した。
福山二代藩主・水野勝俊からの庇護もあり、その勝俊の位牌が伝わる。
承応年間(1652~1654年)に建立したと伝えられる三十番神堂があり、二代・日護の時、延宝年中(1673~1681)奉行・藤井六郎右衛門に願い出て、境内門前を広げ、四代・日義、元文四(1739)年に鐘を鋳造した。
妙蓮寺本堂、鐘楼、山門とも元文年間(1736~1741)に再建された。
関税は、国の経済を発展させるが戦争も起こす!
鎌倉 北鎌倉駅方面の街並みが良く見える「八雲神社」
チャレンジと失敗を繰り返すことで、うまくいくようになる!
尾道最大の磨崖仏、浄土寺山「不動岩」
江戸末期の木版画にはすでに描かれており、年号作者らと岩のまわりをみまわしたものの発見できず。
(岩の向きと背景は、現実には一致しません)
浄土寺山は瑠璃山の別名をもつ。浄土寺山8合目あたりに巨石が「不動岩」です。巨岩に不動明王が刻まれています。
不動明王は、真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で幅広く信仰されています。
密教の根本尊である大日如来の化身で「お不動さん」の名で親しまれ、大日大聖不動明王、無動明王、無動尊、不動尊などとも呼ばれており、特に日本において根強い信仰を得ております。真言宗では大日如来の脇待として、天台宗では在家の本尊として置かれる事もあります。
浄土寺山の麓に真言宗の浄土寺があり、不動明王を刻み込んだのでしょうか。
この巨石の上部が展望台になっています。上から岩を見ると、大阪城築城のため岩を割ろうとしたのか、彫ったくぼみがいくつかあります。
お金に重きを置くと、お金はあっても人々が飢えてしまう!
厚木 平安初期の美人小野小町を祀る「小町神社」
この小町神社は、その昔鎌倉時代「丹後の局」という世にもまれな美人がおり、ひそかに源頼朝のご寵愛を受け終に局は身ごもりました。これを知った婦人政子は大変ねたみ、畠山重忠に局を由比ヶ浜で首をはねよと命じました。重忠は家臣の本多次郎に命じ局を浜へ伴い殺そうとしましたが、局の身を哀れみ身代わりを立てその場をつくろい、乳兄弟で小野の住人川上酒匂の屋敷にかくまい局を助けました。然しいつとはなくその事が政子の耳に入りその怒りは骨髄に徹する程厳しく、局は俄かに白髪の姿になってしまいました。局は心を静め考えた末、俤(おもかげ)のかわらで年の積れかし、たとえ命に限りあるとも」という古歌を短冊に書き心身を清め十七日間一心に小町姫を祈った処、満願の日に元の黒髪に戻りました。局は霊験の尊さを感じ小野の林中に小町神社を建てました。それ以後三十歳以下の男女で白髪の人が心厚く小町神社へ祈ると黒髪に変わり、遠方の人々も参詣に来る様になりました。その後局は泉州住吉で玉の様な男子を生みました。その子が後の薩摩の島津家の祖先だと人々は伝えています。
伝者 別当 小野山宮野院 (表示板より)