脳を鍛えるトレーニング……何もする気になれない!

“ 「ぞうきんがけ」は脳のトレーニングになるという。身体のあちこちを細部に渡って細かく動かし、「きれいにする」という目的があります。
 手足の感覚や目からの情報をもとに、頭を使いながらきれいにしなければなりません。
 掃除などもそうですが、電機製品の自動化が進むと、脳を鍛えることが難しくなるのでしょうか?
 感覚からの情報をもとに、脳を鍛えることは、認知症を防ぐことにつながることにならないのでしょうか!”

福山 鞆 水軍の拠点だった大可島「圓福寺」

 当寺院の建つ場所は大可島といい、鞆港の入り口に浮かぶ島だった。頂きには海城が築かれており、南北朝時代には北朝・足利幕府軍と南朝・後醍醐天皇軍との合戦の舞台となりました。
 戦国時代には村上水軍の一族がこの海城を拠点にして、海上交通の要所・鞆の浦一帯の海上権を握っていました。
 福島正則が鞆城を築いた慶長年間(1600年頃)に、埋め立てによって大可島が陸続きとなりました。城は廃城となり、慶長15年(1610年)頃に大可島城(たいがしましろ)の跡地に移転し、建造されたと伝えられています。江戸時代は真言宗明王院の末寺となっていました。朝鮮通信使が来日した際には上官が宿泊しました。

 いろは丸沈没事件の談判の際、紀州藩の宿舎に使用されました。

明治維新は、財政の力と若者達の力によるものであった!

“ 江戸時代、徳川幕府にいじられた長州藩と薩摩藩、早くから財政難になり、そのための対策に早くから着手、長州藩は上下関係なくいろいろな意見を殿さまが聞いていたようです。薩摩藩も琉球の人達を使って、支那(中国)との貿易をやっていたようです。
 その結果、幕末には江戸幕府と対決する力を身につけていまいした。
 苦しいとき、困ったときどうするか、それが将来の対策につながっていくようです。
 ただ、多少うまくいったときも、決して思い上がらず、困ったときの本来の対策を忘れないで続けていくことが大事ですね!”

鎌倉 新田義貞が本陣を構えたところ「九品寺」

 開基は、新田義貞と伝えられています。1333年(元弘3年)新田義貞軍が北条氏を討つため鎌倉攻めをしたとき、この場所に本陣をかまえたということです。北条氏が滅びたあと、義貞は北条方の戦死者の霊を慰めるため、1336年(延元元年)この地に九品寺を建て、義貞が日ごろから尊敬していた風航順西(ふうこうじゅんさい)和尚(おしょう)を京都から招いて開山とし、戦死者の霊を厚く弔ったといいます。
 山門と本堂にそれぞれ掲げられている額の「内裏山」と「九品寺」の文字は、新田義貞が書いた字の写しと伝えられています。もとになった額は、傷みがひどいため本堂に保存されています。

[イメージ記憶]の自在性を害うのはコトバ!

 言葉は、真実かどうかに拘わらす、特定のイメージを創ってしまいます。これは、人間にしかできますん。
 ということは、ウソも成立してしまいかす。
 人間以外の動物は、感覚で得た情報で判断しています。最近では植物もそうだそうです。
 そこに、言葉による情報伝達手段が高度に発達し、しかも、生成AIが開発され、ますます誤情報を見分けることが難しくなっています。
 五感の情報収集の力を研き、正しい情報を蓄積しておく力が、ますます必要になっています。やっかいな世の中にもなりつつあるようです!

尾道 市立美術館から 千光寺への途中に「鼓岩」

 鼓岩(つづみ岩)、別名ポンポン岩と呼ばれ、岩の上を石で打つと「ポンポン」と鼓のような音がします。
 右側の岩の傷は大阪城築城の時、石垣材として搬出すべく割りかけたノミの跡だといわれています。

【鼓岩とお姫様】という民話があります。

 戦国の世、千光寺山には木梨山城主(木ノ庄町)杉原氏の出城「権現山城」がありました。
 城にすぐ近い南の山道にある大岩は、お姫さまや、若君のこの上ない遊び場でした。
 大岩は、優しい奥方さまやお姫さまが大好きで、お城から聞こえてくる琴や鼓の音に、うっとりと聞きほれていました。
 コロコロ  コロコロ  コロリンシャン、
 ポン  ポンポン  ポン  ポンポン
 大岩は毎日が宴のように楽しい気分でした。…………

孤独になると、不安やイライラがエスカレート!

 昨今は、言葉や映像での情報発信がメインです。しかし、その流れに乗れないと孤独になりかねません。
 たとえば、頭にきてカッとしてしまうと、仲間はずれになってしまいかねません。
 しかし、妥協して相手のペースに乗ってしまえば、自分というものを維持できません。
 周りの流れに乗らないでも、しっかりと自分というものを持ち続けるノウハウは、どこかで身につけたいものです。
 ただし、自分というものを持ちすぎると、頑固という評価になります。
 難しいですね!

厚木 古くはこのあたりに鋳物師がいた「子合地蔵尊」

 『子合地蔵牌山来記』によると、この地蔵尊は、八幡太郎義家の六男・森冠者義隆に縁のあるものといいます。保元・平治の乱の折、義隆は妻子をおいて相模国毛利荘荻野郷に落ちてきました。義隆の死後その終焉の地に参ろうとこの地にやってきたのは、義隆の遺児の僧・浄慶でした。浄慶は、子合に住まっていた義隆の郎党・毛利のもとを訪ねました。主計は、義隆追善のため上京、河内国(大阪府)壷井にて義隆縁の地蔵尊をいただき、郷里・荻野郷子合に戻り、浮慶に託して、義隆公三十三回忌の法要を営みました。その折に建立したのが、子合地蔵尊です。

人の心をひきつける人物、魅力の乏しい人物!

“ なぜか人の心を惹きつけてしまう魅力を持った人。そういう人に、おそらく、早口の人はいない。
 ゆっくり話すと、つねに自然な呼吸ができ、自律神経が安定します。そうすると自分が安定し、相手の話も聞き取ることが出来ます。
 しかし、時代は変わってしまったのでしょうか、早口の歌が多くなってきています。画面に歌詞が流れないと、なかなかすべては聞き取れません。
 昔の歌のように、ゆっくりと流れ、心に染み入る歌はもう無くなってしまうのでしょうか?
 一方で、レコード復活のように、戻ってくるのでしょうか?”