福山 鞆 神功皇后が海路安全を祈る「沼名前神社」

 現在の沼名前神社は、明治に渡守神社(わたすじんじゃ)・鞆祇園宮(ともぎおんぐう)を合祀し、『延喜式』神名帳の記載にならって「沼名前神社」と改称したものである。神社側では、渡守神社が『延喜式』神名帳所載の式内社で、同社が現在に至るとしている。現在の祭神二柱(大綿津見命・須佐之男命)は、それまでの各社の祭神である。
 今から千八百数十年前、第十四代仲哀天皇の二年、神功皇后が西国へ御下向の際、この浦に御寄泊になり、この地に社の無きことを知り、斎場を設け、この浦の海中より涌出た霊石を神璽として、綿津見命を祀り、海路の安全をお祈りになられたのが、当社の始まりです。

伝え上手な人は沈黙を利用!

 最近、若い人達の間では、話すスピードが早くなっているようです。大学の講義なども早くなっているようです。
 話すスピードが速ければ、当然、情報の量が増えます。と同時に、自分で考える時間が少なくなるのでは、と心配です。
 ネット社会になり、情報の量が多くなり、それに加え、生成AIが進化し、自分で考えることが少なくなり、自分は優秀だと思い込み………。
 どんな情報であれ、その情報をもとに、自分でコメントを創り出す作業を続け、なんとか自分で考える作業を続けたいものです!

鎌倉 疫病蔓延で退治した蜘蛛を祀る「八雲神社」

 1080年頃に大発生した黒蜘蛛が疫病を蔓延させたが、当時「蜘蛛は益虫」とされていたため駆除ができなかった。
 そこに中央より新羅三郎義光(八幡太郎吉家の弟)が、「朝見た蜘蛛は逃がせ、夜見た蜘蛛は殺せ」というスローガンをかかげ、多くの蜘蛛を焼き殺し駆除に成功した。その後、蜘蛛のたたりを恐れ神社が建てられた。当初「焼蜘蛛神社」では気持ちが悪いため、間もなく「祇園天王社」と改められ、その後、「八雲神社」になった。
 もとは焼蜘蛛(やくも)神社だったとか。

劣等感は心が勝手につくり出した妄想!

 迷いの多くは、体験を伴わない知識から生まれてくるのでは、と思うことがあります。
 子供時代に自然の中で遊び、その後、学校で学び始めると、いつの間にか、まず現実を正しく把握する習慣が出来てくるようです。
 すると、まず状況を把握し、どう行動するか、考えます。すると、悩む数が減ってきます。
 もちろん、それ以外の抽象的な悩みもあります。しかし、少しは悩みが減ってくるようです!

尾道 裏山に岩に刻まれた仏像群が「済法寺」

 旧市街から見ると、ちょっと離れた西側にあります。
 境内に入っただけでは気がつかないのですが、裏山にある“岩に刻まれた仏像群(磨崖仏)”は見もの、特別な世界観を作り出しています。
 墓地がある斜面には、数多くの仏像か岩に刻み込まれています。ただし、お墓があるところより上は道がありません。双眼鏡などで見ることをおすすめします。(このあたりは花崗岩が風化した大きめの砂粒が斜面にあり、枯れ葉も多く、かなり滑りやすいのです。このような道のない斜面を歩きなれた人以外は、登らない方がよいでしょう。)

心理的に成長が苦しみを救う!

 考えすぎは、ストレスの原因になります。しかし、何も考えないで行動すると世間に害を及ぼすこともあります。
 ある程度はマイナスが起こることを考えておく必要はあるのですが、どの程度考えておくかは、難しいですね。
 ただ、何かしら自分にとってのマイナスの事象が起きてしまったら、冷静に、現状を洩れなく正確に把握し、自分ができること、他人にサポートしてもらうことなど、考えることができるように、日頃からの心構えは、必要ですね!

鎌倉 縁結び観音も祀る「佐助稲荷神社」

 祭神は、宇迦御魂神(うがのみたま)のほかに、大己貴神(大国主命の別称)、佐田彦命、大宮主命、事代主命の四神。
 お稲荷さんのご祭神は須佐之男神と神大市姫(かむおおいちひめ)の子供の女神・宇迦之御霊神(うがのみたまのかみ)で、食糧を司り、とくに稲の豊穣を護るのである。だから、古来より米を生産する農家だけでなく、米を主食とする日本人の尊崇を集めてきた。

英雄や強いリーダーは、危ない!

 日本では、ロシアのプーチンさんを悪人と思っている人が多いと思います。
 織田信長は、日本では英雄とされていますが、多くの領土を奪い浪人を生み出すと共に、一向一揆に対しては2万人以上を虐殺したといいます。しかし、英雄なのです。
 そう考えると、プーチンさんも英雄なのかな???、疑問が湧いてきます。
 坂本龍馬も、今の感覚で言えば詐欺的な面がうかがえます。
 「勝者の歴史」と言われるように、勝者は自分に都合の悪いことは総て抹消し、自分に都合の良いことだけを残し、それを材料にして歴史書を書いてくれる人を優遇し、英雄になって行くのでしょうか?

厚木 秀吉の小田原攻めの際、兵火に「法界寺」

 北条氏直が荻野郷の地頭松田康長に命じて造営。秀吉の小田原攻めの際、兵火にかかり以前のような繁栄は失われたことが相模国風土記稿に記されている。
(北条 氏直(うじなお)は、相模国の戦国大名で小田原城主。後北条氏の第5代当主。父は北条氏政、母は武田信玄の娘・黄梅院。父と共に後北条氏の最大版図を築き上げたが、豊臣秀吉による小田原攻めで、後北条氏の関東支配は終焉を迎えた。)
 その後、近世初期、僧党誉の中興もあり壮大な寺容を誇り、六斎市(門前市)も栄えた。本堂の裏には、厚木を中心に多くの梵鐘や仏像を製作した鋳物師、木村一族のお墓がある。