物質的な富を誇っても、その人自身の価値ではない!

 自然にそって生きていくのが生物の基本。
 その本の中で、状況に応じて協力しながら生きてきた人間。
 しかし、文明が出来、産業革命を行い、いつの間にか自然は制御できると、思ってしまいました。
 でも、自然はそう簡単には、人間の思うとおりにはなりませんね!

尾道 四十八夜念仏修行ののち入水往生「信行寺」

 1214年に浄土宗第二祖の聖光が開いた寺で本尊は阿弥陀如来。元は聖光が向島の三ツ石に一草庵を結んで住んだのがはじめである。

 1596~1614年に住職称住がこの草庵で四十八夜念仏修行をしたとき、その満願の暁方、阿弥陀如来の来迎に逢い、結集と共に入水往生したが、その時結集の中の一人は現世に残ってこの庵を相続せよというので、行欣が残ることになり、1603年現在地の下の山陽線路上の辺に移った。

 1891年山陽鉄道が開通したので、堂舎を現在地に移した。

近日中にかたづけるべき仕事を列記する!

 やることがたくさんあり、頭が混乱したとき、リストに書き出すことも良いのですが、カードに書き、優先順位に応じて並べることも、効率化につながります。
 カードだと、並び替えが自由に出来、途中で変えることも可能です。
 霊性に考えることが難しい場合も、支援してくださる方に、優先にづけを手伝ってもらうこともできます。
 混乱したときは、「文字化」できれば良いですね!
 

厚木 相模国式内社の「小野神社」

 現在の拝殿は、嘉永(かえい)元年(1848年)に建てられ、わら葺屋根でありましたが、昭和四十三年に鉄板蓑きに替えられました。本殿は拝殿よりも1mほど高い地面に神明造(しんめいづく)りで造られています。「新編相模国風土記稿」に「閉香明神社(かんかみょうじんやしろ)、村の鎮守なり延喜式に載りし小野神社、当国十三社の一(いつ)にて祭神(さいじん)下春命(したはるのみこと)という」とあります。
 明治時代になってから、この神社の祭神には日本武尊(やまとたけるのみこと)も加えられました。それは日本武尊が東国の賊の征伐に向かった際、野火の焼きうちの苦難にあうという「古事記」に記述の地が「小野」と関係するとして祭神に加えたもののようです。

(「玉川の歴史と民話を21世紀に」(玉川地区協議会)より)

マネジメントは、あくまで「継続的なもの」!

 経済の成長期には、「一発勝負」を繰り返すリーダーが多かったが、経済が安定化すると、周到な準備をし、着手するタイミングを見計る必要がある。
 いあゆる「正しい判断」ができるように、「ものさし」となるべき誠実な人生哲学を持つ必要がある。
 これには、事実をありのままに、正確に把握する経験を積み上げるしかないんでしょうか!

鎌倉 登り口に「星ノ井」のある「虚空蔵堂」

 虚空蔵菩薩は密教で発達した仏です。果てしなく大きな智慧と福徳があるとされ、その智慧を頼って「虚空蔵求聞持法(ぐもんじほう)」という修法(しゅほう)が生まれました。この菩薩の陀羅尼(だらに)を百万遍唱えると、人並み外れた記憶力が授かるといいます。空海もこれを成し遂げ、利益を得たそうです。
 また、五大虚空蔵菩薩を本尊とした息災・来福の祈願法もあります。五大虚空蔵菩薩とは、金剛界曼荼羅(まんだら)の如来が虚空蔵菩薩に変化したもので、菩薩の法力を五つに分けて五尊で表しています。
 基本的なすがたは菩薩形で、蓮台に座しています。右手には智慧を象徴する剣を、左手には福徳を表す如意宝珠(にょいほうじゅ)を蓮華の上にのせて持っています。ただし、求聞持法の本尊となるときは、右手は与願(よがん)印です。

トリビア:虚空蔵菩薩を本尊とする寺では「十三参り」が行われる。数えで十三歳になると、福徳・智慧・健康を授かるようにとお参りする行事。
(『イラストでわかる「日本の仏さま」』 日本の仏研究会編より)

些細なことに対しても、ふらつかない胆力!

 心の安定感はどのようにしたらいいのでしょうか?
 何かにこだわってしまうと、不安感が出やすいようです。
 すると、行動もできなくなってしまいます。
 具体的な行動に移れば、不安感などは湧いてきません。
 やはり、早く決め(これが大事)、早く行動出来れば、不安はなくなるのでしょうね。
 訓練しかないのでしょうね!

尾道 昔、夜毎に海上を照らした玉の岩の「千光寺」

 寺伝によれば806年に空海(弘法大師)によって創建され、源満仲(多田満仲)によって再興されたというが確証はなく、中世以前の寺歴は判然としない。
 興趣千変万化、奇岩、奇勝など四季を通じて自然の神秘を探賞できます。

 唐から空海が帰国したのが806年、これ以降、真言密教が日本に広められた。ということは、806年に創建されたは??ですね。
 また、高野山金剛峯寺を修禅の道場として開創したのは816年のことで、真言宗の開宗はその頃とされています。

顔の表情は感情の鑑!

 笑うと人間関係がよくなると同時に、自分の健康にもよいと言われています。
 大阪の笑いは、苦労する環境の中で、生き残るための笑いなのか、そんな気がしてきます。
 大阪の笑い、京都の言葉遣い、なんとはなく生き残るために生み出したような気もします。
 しかし、対人関係では、笑いは大事な機能なのですね!

座間 家康が鷹狩りの途中に寄った「宗仲寺」

 1603年、徳川家康の重臣であった内藤清成(きよしげ)が実父竹田宗仲の菩提のために鎌倉岩瀬の大長寺第4世・源栄上人を開山として創建。
 
  内藤清成は当時、大島・田名・当麻・磯部・新戸の各地域を治める領主であったが、家康の三河以来の家臣で2代将軍秀忠の守役を命ぜられていたこともあり、家康公が存命中の鷹狩りの際にはここに立ち寄ったとされるほか、1617年、家康公の霊柩が久能山から日光へ遷御される際には、一行がこの場所で休息をとったといわれている。

夏の暑い日は体温と同じくらいまで気温が上昇!

 熱中症の季節ですね。熱中症にかかる人は、その人の置かれた環境の違いだけなのでしょうか?
 同じ環境にいても、熱中症にかかる人・かからない人の差はどこにあるのでしょうか?
 温暖化が進む地球、熱中症にかかりにくい人が生き残っていくのでしょうね。
 縄文時代は、温暖化の季節から寒冷化の季節に向かったようです。海面の高さが数mも違ったようです。
 このときに生き残った人々は、寒冷化に強かったのか、住む場所を移動し生き残ったのか、どうなのでしょうね!

鎌倉 女性にとって圧政の時代に救いの寺「東慶寺」

 東慶寺といえば、駆け込み寺とか、縁切り寺とも呼ばれ、女性にはこの上なくありがたい男子禁制の尼寺だった。妻の方から離縁を申し出ることなど許されない封建時代にあって、ここに駆け込めさえすれば、「離婚できる」というのだから、江戸時代、多くの女性がこの尼寺に駆け込んだものもうなずける。江戸末期の150年間には約二千人の女性が駆け込んだともいわれている。江戸時代には女性の自由が極端に制限されていた時代である。そんな時代にこの東慶寺こそ、女性にとって人生をやり直せる稀有な緊急避難場所だった。
 定年と同時に、妻から三行半(夫から妻または妻の父兄にあてた離別状…三行半に書く習慣からいう)をポンと渡され、おろおろする中高年の男性も多い昨今、往時の抑圧された女性達の境涯を想像するのは難しい。女性にとって圧政への時代に、この尼寺の担った役割はきわめて重要だっただろう。封建制度の矛盾のほころびを補う役割を果たすことで、ガス抜きの効果をも果たしていたのかもしれない。時代の必然の賜物だったのかもしれない。
  (「鎌倉なるほど事典」楠本勝治著 実業之日本社 より)

「いやです」と言われる場合を想像!

 ストーカー事件が増えています。好きな人に対する感情よりも、怯えや不安の感情の方が強いためなのですが、子供時代に、怯えや不安の体験が多かったのでしょうか?
 核家族化が進み、子供時代に接触する大人の数が少なくなり、また、ガキ大将もいなくなり、救ってくれる人がいない状態で育つ人が増えたためなのでしょうか?
 確かに、スーパーやコンビニで声をかけられることもなく、ただ買い物をするだけ、むかしは、店の人が普段話やお客の興味の持ちそうな話、子供を連れていれば、子供にも声かけをしていましたね!

尾道 自然石に彫られた十六羅漢「済法寺裏山」

 済法寺の裏山斜面の自然岩に多くの磨崖の羅漢像が刻まれています。 済法寺の裏山の一面に広がる巨岩に、釈迦如来座像を頂点として、4段ぐらいの岩群に、光背状に彫りくぼめて半肉彫りする十六羅漢磨崖仏があり、江戸時代の尾道石工の技術の切れをノミ跡に見ることができます。

 ただし注意が必要です。見学用の道がないので山で遊んだ経験のある人はともかく、山遊びの経験がない人は、双眼鏡など準備して下から見てください。特に枯れ葉が落ちているシーズンは、滑りやすいので注意してください。

一人ひとりの価値観が多様化した!

 人間の感覚には、優先順位があります。
 感覚の優先順位は、触覚>聴覚>視覚>嗅覚>味覚のようです。
 昨今の情報社会では、視覚を使うことが多くなりました。画面に音をつけ加えるのは、視覚より聴覚が優先する為の野でしょうか?
 そう言えば、歯の治療で痛みをやわらげるため、左右の足先を組み合わせ、力を入れると痛みが和らぎます。これは「触覚(タッチ)」が優先順位が高いためなのでしょうか?

厚木 曹洞宗僧侶の修行道場だった「清源院」

 1050年天台宗の桓瞬和尚が開山と伝わる古刹。一時は荒れてたこのお寺を再建したのは、曹洞宗の天巽和尚。
 伊豆の伊東一族の子孫と伝えられている、伊東九郎三郎政世は源清院を菩提寺とし、源清院本堂裏には、政世をはじめとする伊東一族の宝筐印塔が並んでいる。
  
 天巽和尚は、足柄の最乗寺15世を勤めた人、最乗寺での務めを終えられて沼田の龍華院に帰る途中、上州で起きた戦乱に巻き込まれることを避け、上荻野にある松石寺に足止めされていたとき、松石寺の住職の地位を譲られた天巽は、三田にあり荒廃していた天台宗清源院の再建に乗り出す。曹洞宗に改められた清源院は、天巽派の寺院として復活を遂げる。

相撲を取り始めると、意外と汗をかいていません!

 暑い日に来客があると、つい冷たい物を出します。相手も、冷たい物が欲しいかどうかは別にして、感謝します。それが日本文化です。
 しかし、外国の人の来客が増え、それぞれの文化があり、その人が望んでいる物を出す配慮が必要になってきたようです。
 日本の文化を求めて来日する人も多いようですが、日本文化を押しつけることには注意が必要のようです!

鎌倉 光明寺草創以前よりこの地にあった「蓮乗院」

 もとは蓮乗寺という真言宗の寺だったが、光明寺が佐助から材木座に移転した以後、蓮乗院として光明寺の一院となった。
 光明寺落成までの間、然阿良忠が滞在したことから、光明寺の新しい住職は、いったんこの寺に入ってから入山するという。

 本尊阿弥陀如来像は、源頼朝に鎌倉入りを進言した千葉常胤の守護仏。千葉常胤の檀那寺であったといわれている(寺紋は月星)。

 当院は光明寺草創以前よりこの地にあって、当時は蓮華寺と称し真言宗に属していたと伝えられている。

心というやつは、すこぶるコントロールしにくい!

 自分の成長の目的地を、幾つになっても決めている人は、どのくらいいるのでしょうか?
 成長の目的地、これを決めるのはかなり難しいと思うのですが。
 中国では、皇帝などが不老不死を求める文化があるようですが、その人の「成長の目的地」を決める文化はあったのでしょうか?
 「権力」を永久に求める文化なのでしょうか?
 日本の向かいの物語「竹取物語」では、かぐや姫が月に帰るとき、不老不死の薬を帝に渡したが、富士山の山頂で燃やしたとなっていますね!

福山 鞆 明治八年に官命によって社名が「沼名前神社」

 現在の沼名前神社は、明治に渡守神社(わたすじんじゃ)・鞆祇園宮(ともぎおんぐう)を合祀し、『延喜式』神名帳の記載にならって「沼名前神社」と改称したものです。神社側では、渡守神社が『延喜式』神名帳所載の式内社で、同社が現在に至るとしています。現在の祭神二柱(大綿津見命・須佐之男命)は、それまでの各社の祭神です。

 今から千八百数十年前、第十四代仲哀天皇の二年、神功皇后が西国へ御下向の際、この浦に御寄泊になり、この地に社の無きことを知り、斎場を設け、この浦の海中より涌出た霊石を神璽として、綿津見命を祀り、海路の安全をお祈りになられたのが、当社の始まりです。
 さらに、神功皇后御還幸の折、再びこの浦にお寄りになり、綿津見神の大前に稜威の高鞆(いづのたかとも(弓を射る時に使った武具の一種)を納め、お礼をされたところから、この地が鞆と呼ばれるようになりました。