「漢字を10個のテスト、3つできた」なんて言うか?

 子供の評価で、テストでの点数による評価が長く続いています。それに加えて統計的な評価で、5段階評価も1939年頃までには取り入れていました。
 当時はコンピュータによる管理がなく、手計算で平均点を計算していたようです。
 その頃、満点は100点なのですが、103点とか105点を付ける先生が一人いました。筆記による解答が3/4占めていたのですが、教科書以外に調べたことが書き加えてあると、100点以上の点がついたようです。
 現在はPCによる管理なので、上限は100点になっているようです!

鎌倉 瘡守稲荷と鬼子母神が祀られる「上行寺」

 山門の裏側には左甚五郎(ひだりじんごろう)作と伝わる竜の彫り物があり、山門の正面に本堂があります。江戸時代後期の熊本の大名細川家(ほそかわけ)が造ったといわれる本堂の軒の表欄間(おもてらんま)や前の柱との梁(はり)などに、すばらしい竜の彫り物があります。
 上行寺は、日範(にちはん)が1313年(正和2年)に創建したといわれる日蓮宗(にちれんしゅう)の寺で、山号は法久山(ほうきゅうざん)といいます。現在の本堂は1886年(明治19年)に、名越松葉ヶ谷(なごえまつばがやつ)の妙法寺(みょうほうじ)の法華堂(ほっけどう)を移築したものといわれています。本堂の中は公開されていませんが、その格天井(ごうてんじょう)には美しい花鳥の絵が、表の欄間には十二支の彫刻がほどこされています。
 本尊は三宝本尊(さんぽうほんぞう)(祖師(そし))で、本堂内正面には日蓮上人像(にちれんしょうにんぞう)、左手に開山の日範上人像や鬼子母神像(きしぼじんぞう)、亀に乗った水天像などが安置されています。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より

“痩せ信仰”が、日本人のなかに根付いている?

 写真やNetの普及なのか? 痩せ信仰が昔に比べ広まっているようです。
 人としての向上は、どこかに行ってしまったのでしょうか?
 見た目の評価は、時代によって違っていますが、浮世絵などを見ても、普通の人が多く、太った人はあまりいないようですね。
 これは国によって違いがあるのでしょうか?

尾道 のんびりとした境内「宝土寺」

 本堂の建物はありません。その代わり、空間的にはのんびりしています。

 このお寺さんは本来の本堂がない(敷地のみ)。
 かわいそうなことに本堂の建設資金がたまったとき、明治になり藩札(藩で発行する、金や銀の引換券)が使用不可になり、価値がなくなってしまった。そのため、本堂を建てることができなくなってしまった、とか。

 年に何回か、ここで趣味で製作したものを販売しているようです。

大半の腰痛は骨の異常ではなく「固くなった筋肉」!

 40代や50代になると、腰痛などの症状が出てきます。
 やはり、人間の進化の過程で、移動するに当たって、4足での移動からから、2足中心の移動に移行したことが、まだ関係しているのでしょうか?
 2026年の4月から、ラジオ体操が1日で3回放送されるようになっています。
 やはり、ラジを体操でからだを動かすと、今まで動かしていなかった所に気がつきます。
 人のからだは、やはりあちこちを動かす必要があるのでしょうね!

相模原 西部 北条氏照の娘貞心尼を中興開基の「天應院」

 戦国時代に八王子を中心とした大石定久公(八王子滝山城主)の統治により、心源院、天應院等が季雲永嶽大和尚を開山にして、明応4年に建立されたと考えられます。
 虚空蔵菩薩を本尊とし、9石7斗の御朱印を賜り、5世太蔭師の時代、北条氏照の娘貞心尼を中興開基として、明応4年(1495)に当地に中興開山したと伝えられます。
 徳川家光の養育役であった青山忠俊により再中興されています。明治時代には、当地に麻溝小学校の前身にあたる下溝学校を開校、また下溝の松原集落にあった薬師堂を当地に移転、この薬師は関東九十一薬師霊場19番です
 また、本堂、客殿、庫裡の新築が平成23年4月に終了し、落慶式を迎えました。

植物性のアブラより、動物性のアブラのほうがからだに悪い……

 健康についての研究をもとに、いろいろな情報が流れています。しかし、研究という物は、ある一部分を切り取って分析するという方法なので、その切り取り方が正しかったのかどうか、問題になることがあります。
 研究の具体的な方法までは、なかなか一般の人達には情報が流れないので、信じるしかないのでしょうね。
 間違いもあることを前提に、健康対策を行うしかないのでしょうね!

鎌倉 頼朝に心情を訴える腰越状を書いた寺「満福寺」

 元暦2年(1185年)5月、源義経が兄頼朝に怒りを買い、鎌倉入りを許されず腰越の地に留められた際に、頼朝に心情を訴える腰越状を書いた寺として知られる。寺には弁慶が書いた腰越状の下書きとされる書状が展示されており、境内には弁慶の腰掛け石や手玉石など、義経・弁慶ゆかりの品々が多数展示されている。

 石段を上ると、「龍護山」という額が掲げられた山門があり、柱には「義経腰越状旧跡満福寺、と書かれた看板があります。山門をくぐると、正面に本堂、左横に盧婁があります。

(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より)

ほんとうに未来を考える姿勢!

 ついつい「今の問題を早く片付けたい」と思ってしまいます。とくに災害対策はそうなってしまいます。
 しかし何年か経って「それで良かったのだろうか?」と、疑問もわいてきます。
 でも、疑問がわいてくれば、「改善の方法がないか」と考えるのですが、考えない人も多くいるようです。
 専門家は、いろいろ考えるようですが、その考えを、次の災害対策に、自動的に反映される「しくみ」づくりに取り組める環境を、整備する必要がありますね!

尾道 山門は「ええもん」と呼ばれる「福善寺」

 尾道の人はこの門を方言で「ええ門」という、いい門という意味です。
 尾道の子供たちが、親にねだるときに「なんかええもん(いいもの)こうてえ(買って)」とおねだりすると、親は「ええもんは福善寺」と言って、ごまかしていたのです。
 この門の中でも木造の龍の立体彫刻はみごとです。
 その門にほどこされている透かし彫りの唐獅子(からじし)、鶴、象などさまざまな見事な装飾木彫をこの門で見ることができます。

年齢を重ねることを肯定的にとらえると寿命が長くなる!

 「年を取っても元気でいたい」と思い、50年代くらいから運動に励んでいる人もいます、
 仲には、一度病気などで足を悪くした人でも、杖を持ちながら歩いている人もおられます。
 からだの元気を保つことが大事なのですが、ポジティブな心を持ち、積極的に“何か”に取り組むことも大事です。
 むかし医療がそれほど発達していない状況で、老人が「老人は生きる字引」とされて、地域の困りごとの相談にのっていました。
 そのような人は、年を取っても元気だったのでしょう!

福山 鞆湾の入口の守り神「淀媛神社」

神功皇后の妹君の「淀媛命」

 十四代仲哀天皇の后であられた神功皇后が、新羅へ出兵に際し、諸国に使令を出して船舶を集め武器鎧をお揃えになった。 また皇后は、妹の淀姫命を松浦に遣わし兵と船を集められた。松浦地方の族長である磯良(しら)を伴い此の地の海辺・膳崎(かしわざき)に着船された。

 淀姫命は松浦より出陣なされし時、沙迦羅龍王(さからりゅうおう)より潮満玉(しおみつたま)と潮干玉(しおひるたま)を借り、375人船に乗り組み、皇后と共に新羅へ向かわれた。対馬を過ぎやがて彼の地が見えだした。 潮干玉を投げられると海は50里ほど干し上がったので、新羅軍は喜び勇んで海の中まで攻めてきた。そこで潮満玉をお投げになると潮がどんどん満ち、陸の上まで上がり船は王城の門まで達した。 新羅王は和睦を乞い貢ぎ物を毎年送ることを誓い長い間届けた。淀姫命は御帰朝後、志佐の美しさと住民の暖かさをお忘れになることなく、病人の治療や干魃には雨乞いをなされた。

わからなくてもいい、日本の古典を教えたほうがいい!

 英語教育が重視されています。しかし現在のアメリカの政治を見ていると、英語教育重視に疑問が出てしまいます。
 トランプ氏を大統領に選ぶ風土の国、そんな国の言葉、疑問が湧いてきませんか?
 日本語は“曖昧”を前提にし、その場の雰囲気を読み込んで、意味を解釈します。
 ということは、言葉だけでは意味が読み取れないのです。常に、言葉に疑問を持ちながら、その場の雰囲気やその人の育った地域の風土、歴史的な意味すらしらないとわからないこともあります。
 英語は言葉だけで解釈できそうです。勉強するには手軽なのかもしれないですが、それで良いのでしょうか?

厚木 古くはこのあたりに鋳物師がいた「子合地蔵尊」

 『子合地蔵牌山来記』によると、この地蔵尊は、八幡太郎義家の六男・森冠者義隆に縁のあるものといいます。保元・平治の乱の折、義隆は妻子をおいて相模国毛利荘荻野郷に落ちてきました。義隆の死後その終焉の地に参ろうとこの地にやってきたのは、義隆の遺児の僧・浄慶でした。浄慶は、子合に住まっていた義隆の郎党・毛利のもとを訪ねました。主計は、義隆追善のため上京、河内国(大阪府)壷井にて義隆縁の地蔵尊をいただき、郷里・荻野郷子合に戻り、浮慶に託して、義隆公三十三回忌の法要を営みました。その折に建立したのが、子合地蔵尊です。
 子合地蔵尊の側に子安山光善院があり、地蔵堂を管理していましたが、明治初年修験道禁止令により、寺は廃止され、住職は還俗して神官となりました。子合地蔵堂には安産祈願の信者が多数参詣して賑やかであったといいます。この地蔵尊は、日本三体地蔵尊の一体で、他の二体は、河内国丹南郡、福島県安達郡帯解村子安に各一体あります。この三体は同木同作で、それぞれ霊験あらたかな安産祈願の地蔵として有名です。

 【出典】『厚木の伝承と地名』『ふるさとを知ろう講座』

「運が悪い」と嘆く時間がもったいない!

 「ほめ言葉」には弱いのですが、状況によっては{……??}となることあり、その場の状況や相手の性格なども考えることがあります。
 具体的な事実に基づいて、具体的にほめることが大事ですね。
 特に仕事や商談中などでほめるときは、注意が必要ですね。失敗すると取り返しが利かないですから!

鎌倉 祇園社神霊を疫病流行時に勧請「八雲神社」

 元村社で山ノ内の鎮守である。祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)。例祭7月15日。境内社に稲荷社がある。小高い丘から見下ろすと北鎌倉駅方面の街並みが良く見える。古くは牛頭天王を祀ったため牛頭天王社と称していた。「相模風土記」に記すことによると、村人がこの地で疫病退散のために京都八坂祇園社を勧進したのが始まりだという。その後、この地に居を構えた関東管領上杉憲房が篤く信仰した。一方、社伝によると文明年間(1469~1486)に上杉家が扇ガ谷と山ノ内に分かれて争ったとき、山ノ内上杉家の憲房が武運長久を祈って、京都の八坂神社から勧進したという。
 境内裏側には庚申塔群がある。この中には寛文5年(1665)の銘のある石造庚申塔が存在する。これは鎌倉市内最大最古。

エゴに満ちた心には、複雑な事象しか見えてこない!

 先入観で、物事を見るクセがついてしまうと……。
 物事は、素直に、ありのままに、見る力が必要なのですが、知識や情報が増え、しかも、その情報が事実かどうかわからない情報が増えてきている現在、事実を捉えることが難しくなってきています。
 最近は、メールなども詐欺情報がどんどん増えてきています。事実確認も難しい時代になっていますね。
 アメリカ大統領のトランプ氏の情報も、事実確認が難しい時代ですから!

道 幕末芸州藩が派兵し、この寺を本陣にした「妙宣寺」

 幕末の風雲急を告げる1867年の末、芸州藩は片岡大記を大隊長とする一個大隊を派兵し、この寺を本陣として尾道を鎮め東の福山藩に備えた。この寺は尾道地方に数少ない幕末維新の史跡である。
 (尾道は、大半が芸州藩、東の外れ側が福山藩(井伊直弼の一つ前の老中首座が阿部正弘で、福山藩の藩主。)
 慶応三年(1867)十五代将軍徳川慶喜は内外の情勢を察し大政奉還を断行。このとき芸州藩は尾道の重要性を認め、片岡大記を隊長として一箇大隊の兵を海路尾道に送り、また意気たからに長州藩の鉄砲隊もくりこみ寺院に分宿、目と鼻の先の福山に徳川の譜代衆阿部氏と対峙した。尾道には官・幕双方の密使やスパイが入り乱れ一触即発の危機をはらんでいた。そのような緊迫状態のなかで芸州藩の支隊が西国寺にも駐屯した。また、血気はやる地元民などで結成された隊士らが、乱暴をはたらき刑に問われたものもある。

順風満帆ばかり続くとはかぎりません!

 思ったような結果が出せないとき、その原因が「どうにもならない原因」と、「なんとかなる原因」があります。
 落ち込むのではなく、その原因を冷静に見分けることが重要なようです。
 原因がどうにもならないときは、あきらめることも重要です。そして、忘れ去ることも大事なのでしょう!

愛川 半僧坊大権現を祭る「勝楽寺」

 半僧坊や田代の半僧坊と呼ばれている勝楽寺。遠州奥山方廣寺(静岡県浜松市北区)より勧請した半僧坊大権現が祭られていることから、「田代半僧坊」と呼ばれています
 半僧坊大権現は、後醍醐天皇の皇子「無文元選禅師」が方廣寺へ御入山の際に出会った白髪の老人を弟子として、日々の作務等を怠ることなく随侍しました。
 禅師が「おまえは半ば僧形である」と言うと、老人は「私は半僧です。」と答えたことから半僧坊と呼ばれるようになったそうです。
 その後、無文元選禅師が亡くなると、姿を消したと言われています。