相模原 西部 北条氏照の娘貞心尼を中興開基の「天應院」

 戦国時代に八王子を中心とした大石定久公(八王子滝山城主)の統治により、心源院、天應院等が季雲永嶽大和尚を開山にして、明応4年に建立されたと考えられます。虚空蔵菩薩を本尊とし、9石7斗の御朱印を賜り、5世太蔭師の時代、北条氏照の娘貞心尼を中興開基として、明応4年(1495)に当地に中興開山したと伝えられます。
 徳川家光の養育役であった青山忠俊により再中興されています。明治時代には、当地に麻溝小学校の前身にあたる下溝学校を開校、また下溝の松原集落にあった薬師堂を当地に移転、この薬師は関東九十一薬師霊場19番です。
 また、本堂、客殿、庫裡の新築が平成23年4月に終了し、落慶式を迎えました。

鎌倉 腰越 生き延びた比企高塚の屋敷跡に「本龍寺」

 この寺は、日蓮聖人の直弟子である日朗聖人の弟子、朗門九鳳の一人、妙音坊日行聖人を開山とする。比企高家の屋敷跡に建てられたと伝えられ、境内には高家の墓が残る。
 龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。慶長6年(1601年)に津村の国人で日蓮宗の信奉篤い島村采女により龍口寺が本格的な寺としての格式を整えられてから、江戸時代までは片瀬腰越八ヶ寺(通称片瀬八ヶ寺)が輪番で維持していた。本龍寺もそれまでは、「与蓮山」と号していたが、「龍口山」と改める。
 平成14年、立教開宗750・創建700年を期して、本堂建て替え並び寺域整備を行う。

初めての町で通りがかりの人に「こんにちは」!

 初めて行った町で、見知らぬ子供に「こんにちわ」と挨拶をされることがあります。鎌倉では「まち案内のホームページ」作りで写真を撮っていたら、中学生の男の子に神社で声をかけられ、「約束した友達が来ないので、町を案内しますか?」と声をかけられ、二時間ほど案内をしてもらいました。
 尾道でも、観光客があまり行かない坂道で、子供達に「こんにちわ」と声をかけられました。こんな子供達に出会うと、その町がとても好きになりますね。
 突然見知らぬ人に挨拶されると、最初はすぐにはこちらから返事ができなかったのですが、少し慣れたからは、挨拶をされたら、いつでも挨拶を返せるようになりました。
 こんな町がどんどん増えてくるとよいのですが!

尾道 断崖に造られたとは思えない「千光寺」

 寺伝によれば806年に空海(弘法大師)によって創建され、源満仲(多田満仲)によって再興されたというが確証はなく、中世以前の寺歴は判然としない。
 興趣千変万化、奇岩、奇勝など四季を通じて自然の神秘を探賞できます。
 唐から空海が帰国したのが806年、これ以降、真言密教が日本に広められた。ということは、806年に創建されたは??ですね。
 また、高野山金剛峯寺を修禅の道場として開創したのは816年のことで、真言宗の開宗はその頃とされています。
 見晴らしの良いところです。“観光のお寺さん”ですね。毎日夕方に撞く“鐘の音”が旧市街に響きます。

ついていい嘘、ついてはいけない嘘!

 「ウソ」というものは、「自分の生き方で決まってくるもの」のようですね。ついても良いウソは、相手を気遣う生き方ができているかどうか、で決まるようです。ただ、都会生活では、周りの干渉が少ないためか、自分を成長させるチャンスが少なくなっています。自分の自由を多く手に入れることは、自分の成長にとって、良いことなのか、悪いことなのか、難しい問題ですね!

厚木 江戸時代は境内に山王社にまつられていた「知恩寺」

【智恩寺山王大権現懸仏】
 江戸時代には、智恩寺境内にあった山王社にまつられていた懸仏(かけぼとけ)が、現在では本堂の中に保存されています。
 山王権現とは、日吉神社・日枝神社の祭神であり、権現とは仏・菩薩が化身してわが国の神として現れることを意味しています。また懸仏は銅などの円板上に、仏像・神像を半肉彫りにあらわし、柱や壁などにかけて礼拝したもので、特に鎌倉時代から室町時代にかけての資料が多く見られます。

子どもが自分で解決していくのを見守る!

 秘境と言われる地域の子育てを見ると、子育ての担当は、多くの場合母方の祖母が担当しているようです。その理由は、お母さんは貴重な労働力の場合が多く、そして、祖母は人生経験が豊かで、子供をゆるやかに育てることができることが理由のようです。
 仕事を持ちながら、また、自分の人生にこだわりがある中年までは、「自分」という意識が子育てより優先しがちのため、子供より自分が優先することもあります。子供を自由に遊ばせることができる親は、それほど多くはないのでしょう。
 むかしは、子供に「勉強しろ」と言うよりは、「遊び相手の首から上は絶対ケガをさせるな」などと、しつけていたようです!

鎌倉 浄土宗三祖光明寺開山の「良忠上人御廟」

 念仏僧の代表者の一人、然阿良忠。石見国三隅荘(島根県)に生まれた人。深く学問を学ばれた後、38歳で聖光上人の弟子となり、法然上人の教えを受け継ぎ、浄土宗の三祖に呼ばれる。法然からかぞえて三代目の人。62歳の頃に鎌倉に入り、布教と弟子の育成に取り組み、鎌倉における専修念仏者の間で指導的立場に立つとともに、他宗僧侶の間でも大きな位置を占めた。78歳の時、在京の門下の招請により、京に上がり布教、著述に励んだ。その後、88歳の時鎌倉に帰ったが、翌年89歳の高齢で入寂した。
 その後、生前の功績が認められ伏見天皇より「記主禅師」の謚号を賜った。本堂横の池のある庭園が記主庭園と名付けられているのはこのことに由来している。

道徳感や倫理観が過剰にまでに強まると不幸が!

 アフガンの今後が心配ですね。イスラム社会は一神教で、制約が厳しいため現在の経済社会には適応しにくいのでしょう。シルクロードが機能していた時代は、小さな集団で移動しながら商売ができたのでしょう。その結果、部族社会が定着し、その枠から抜け出した商いが難しかったのかも知れませんね。
 イスラム教は国によって多少の違いはありますが、道徳観・倫理観が、日本人から見ると過剰なまで強いため(日本は宗教については規制がゆるすぎるのですが)、自由主義を基本とした資本主義社会には適応しにくいのでしょう!