『有用な人材』になるとは限らない!

 共同体での「有用な人材」とは、やはり、その共同体において何かしらのメリットを生む“しくみ”をつくる人、また、そのしくみを有効に活用していく人なのでしょう。それがお金に関係しているかどうかは別にしてです。

 昔からの共同体に残っている通過儀礼は、共同体のしくみを担当できる人として周りの人たちから認められる、という儀式なのでしょう。

 農耕文化が始まる以前は、他の動物と同じように、共同体の必要性はほとんどなく、家族を中心として単位で生き残り作戦を行っていたのでしょう。

 しかし、農耕社会になると共同体は大きくなり、それぞれの役割ができ、周りの人達と協力していかないと、生き残っていけなくなったのでしょう!

愛川 半僧坊大権現を祭る「勝楽寺 半僧坊」

 開山は天文13年(1544)能庵宗為禅師といわれています。毎年4月17日の春まつりには、近郷近在の新花嫁さんが挙式の当日の晴れ姿でお参りする習わしがあるので「美女祭り」として賑やかです。地元では平山の勝楽寺というより、田代の半僧坊という呼称が一般的です。
 半僧坊や田代の半僧坊と呼ばれている勝楽寺。遠州奥山方廣寺(静岡県浜松市北区)より勧請した半僧坊大権現が祭られていることから、「田代半僧坊」と呼ばれています。
 半僧坊大権現は、後醍醐天皇の皇子「無文元選禅師」が方廣寺へ御入山の際に出会った白髪の老人を弟子として、日々の作務等を怠ることなく随侍しました。
 禅師が「おまえは半ば僧形である」と言うと、老人は「私は半僧です。」と答えたことから半僧坊と呼ばれるようになったそうです。
 その後、無文元選禅師が亡くなると、姿を消したと言われています。

自分を好きになりたい!

 自分勝手に生きている人、そのような人は「自分自身が好き」なのでしょうか?、「自分勝手でいないと生きにくい」のでしょうか?
 いまでも秘教といわれるところで生活している人々は、「通過儀礼」を受けることで、その共同体のために生きていくことが自分の目標になり、それが、自分を好きにしていくようです。その共同体では、自分勝手は許されないのでしょう。自分勝手をやっていると、日本にむかしあった「村八分」のような状態になるのでしょうか?
 四国八十八箇所巡礼のときの「お接待」は、見知らぬ人にまで施しをします。最近ではボランティア活動もそうですが、「人のためにつくす」が生物の生き残り作戦の上で、最も大事なことなのでしょう。この遺伝子スイッチがONになった人が、ヒトの生き残りに有利だったのでしょうか?

尾道 技芸が上達する「お経の塚」がある「海龍寺」

 このお堂は、阿弥陀如来を、ご本尊とする阿弥陀堂であります。当山では、位牌堂と呼ばれています。江戸期より死者の為に家の仏壇にお位牌をまつると共に、この位牌堂にもお位牌を作り、まつる習わしが、現在も続いています。ご本尊、阿弥陀如来様は、柔道家西郷四郎(姿三四郎のモデル)が晩年期、祈っていた念持仏です。
 大きな岩が境内の奥(東)の方にあります。
 裏山は浄土寺山(瑠璃山)という山で、登山道を登るルートの他に、海龍寺の裏手からは3つの鎖場を経て歩きで登るルートもあります。
 2019年2月19日午前2時10分頃、この寺で火事があり、地蔵堂など2棟が焼けました。仏像を盗んだ後、放火したとのことです。

自分でつくった固定観念から解放!

 場違いなところだと感じた瞬間から、緊張し、居心地が悪くなります。早くその環境から逃げ出したくなります。しかし、何かしらの理由があるため、そこにいるのですから逃げ出すこともできません。
 自分で自分を無理やり信じて、居直るしかないのでしょう。自分の思い込みで、プレッシャーを感じているだけだと、思うしかないのでしょうか!

鎌倉 火の災いを除く「秋葉大権現」

 秋葉山大権現というのは、本山は静岡県の松の方の秋葉神社(あきばじんじゃ)で、火事を防ぐ夫伏(ひぶ)せや水難除(よ)けの神として、江戸時代には各地に秋葉講中(あきばこうちゅう)という信者の団体がつくられ、代参(だいさん)という代表者の本山詣で(ほんざんもうで)が盛んに行われました。光明寺やその信者を火災や水難から守るため、1714年(正徳4年) に神社を秋葉山から光明寺裏山へ移してまつりました。材木座や小坪(こつぼ)をはじめ各地に秋葉講(あきばこう)が作られ、火災と海上安全を祈願する人々が訪れ、社殿も立派だったそうです。
 思ったより境内は広いですね。昔はもっと建物があったのでしょうね。

人の態度や言葉をいいほうに受け取る!

 「人の言葉」の影響は、思っているよりも大きいようです。
 新コロナワクチンの後遺症でもそうですね。「後遺症が出る」と聞くと、何かしらの変化があると「これもワクチンの影響かな」と思ってしまいます。これを人に話すと、その人は「ワクチンは必ず後遺症が出る」と思い、他の人からも情報を集めますが、その情報の中に「なんでもないよ」という情報があっても、その情報は採用されず、「後遺症が出る」という情報に重きを置きます。
 実際は数パーセントの人に後遺症が出ると聞いても、自分はその数パーセントに入ると考えてしまいます。しかし、その心配性が、生物として生き残ってきた根本にあるのでしょうね!

厚木 神仏分離で寺院から神社に「智音神社」

 鎌倉時代の初期、源平合戦の中の屋島の戦で、平家方の舟に立った扇を射落して一躍有名になった那須余一宗高は、その戦功により、下野国那須の総領を幕府から与えられました。戦の数ヵ月後、鎌倉に引上げた幕府の御家人の中に余一もいました、この御家人が大磯の遊女屋に遊んだころ、余一は眼病にかかっていました。
 愛甲郡厚木の里の天王森境内に祭られてあった薬師如来が、眼病に効くことを聞いた余一は大磯から馬を飛ばして薬師様の堂宇に参詣し、祈願すること数日、その祈願満願の日、眼病は完全に治りました。このため余一は、眼病平癒のお礼に当時の厚木村の中に真言の寺、摂光山智音寺を建立したと言われます。

儀礼的な「ごちそうさまでーす」よりも!

 「儀礼」とは共同体のルールなのですが、このしくみが何故つくられたのでしょうか。おそらく、生活している共同体で、その共同体に何かしら貢献するしくみとしてできたのでしょう。秘境で暮らす人たちの通過儀礼を見ると、生死がかかった通過儀礼もあります。その儀礼をこなすことができて、はじめて大人として扱われるようになります。
 現在、経済的に豊かになった日本では、儀礼は形式的なものになっていますが、地球の人口が半世紀で二倍を超えた現在、これから先、食糧不足問題が浮上し、共同体の中での助け合いが必須となる時期がくると、もう一度、共同体の中での貢献ができなければ、大人として認められない時期がくるのでしょう!

尾道 大火のため焼亡、1928年に移転「海徳寺」

 1926年10月12日の早暁、不幸大火のため全山焼亡、1928年現在地に移転新築しました。
 むかしは、防地川河口にありました。広大な境内を有する通称「沖の道場」と呼ばれ、市の発展につれて周辺に民家が建ち並び、境内が広かったので、サーカス興行や相撲の興行があって、名力士常陸山、梅ヶ谷、太刀山、鳳などの勇姿も見られたそうです。
 その頃は、本堂の東側に一本の古松があって、竜神がその梢に燈明を献じるというので、その松は「竜燈松」と呼ばれていたそうです。
 一遍上人が諸国遊行の途中、尾道に草庵を結んで念仏勧進されたのにはじまると言われています。

自分の弱さを見せる効果は!

 子供時代にいじめが深刻だと、「自分の弱さを見せられない」という状態になります。そうなると大人になっても、自分の弱さを見せないようにするようになります。これでは他人と親しくなることができません。
 表面的な付き合いに終始するようになります。残念なことに、これが一生続くことになりかねません。難しい社会になっていますね。
 もっと楽な社会を目指したいですね!