相手に対して抱く感情はブーメラン!

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 「他人に親切にする」ことは、脳の活性化につながっているのでしょう。まわりへの細やかな観察と、その情報をもとに、相手に対しての適切な方法を考え、そして、その実行の方法を考える、ということが脳の活性化に貢献するのでしょうか。また、ホモサピエンスが生き残ってきたことも、この他人への親切が、生き残りへの適切な手段だったのでしょうか!


厚木 荻野山中藩の陣屋が付近に「山中稲荷神社」

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荻野山中藩陣屋跡(市指定史跡)
 現在の下荻野字山中には、荻野山中藩大久保家の陣屋がありました。
 この大久保家は、相模国愛甲郡中荻野村を中心として、合計1万3千石を領した小さな大名でした。初代の大久保教寛(のりひろ)は、小田原藩主大久保忠朝の次男で、1698年、相模国足柄上郡、駿河国駿東郡内の新開地6千石を分けられ、分家しました。1706年駿河国駿東郡、富士郡に5千石の加増を受けて1万1石の大名となり、更に1718年には、相模国大住郡、高座郡、愛甲郡内に5千石の加増を受け、総計1万6千石となります。


相手が脅迫のプロならば!

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 クレーマーや脅迫のプロ、そして、戦国時代の武将は「人間の弱み」を見つけ、それをうまく利用する名人だったのでしょう。しかし、戦国時代の武将は評価されるが、クレーマーや脅迫のプロは犯罪人として見られます。似たような素質を持ちながら、生きた時代によって、プラスにもマイナスにもなります。やはり、その時代の中で、その環境の中で、どのようにするか、ですね!


鎌倉 本寺の禅興寺は衰退「明月院」だけが残る

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 明月院を、多くの人が訪れるのは初夏の頃……紫陽花の咲く時分です。
 あじさい寺。の別称があるほど有名なこの寺のことですから、数百株の見事な、丹精こめた植え込みが、石の総門から始まって、老い朽ちた山門をくぐりだらだら上りに左折して本堂前の庭へくるまで、びっしりと左右に並んで夢幻のように花を咲かせます。
 まことに幽玄、閑雅、静識の極致。


両親をあるがままに見て育った子供!

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 親は、子供を「言葉でしつけよう」としています。しかし、人類の歴史を考えると、人類の歴史を1時間の映画にすると、言葉を使い出したのは、映画の最後の数十秒なのでしょう。映画の残りの59分と数十秒は、どのようにして子供を育てていたのでしょうか。脳科学者は、赤ちゃんが聞く能力を身につけるのは、まだ言葉が話せないときに、お母さんやまわりの兄や姉、祖父母などが、赤ちゃんを理解しようと、「聴こうとしている態度」が重要だと言っている人もいるようです!


鎌倉 元軍が再襲来しないことを祈った「覚園寺」

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 1218年に北条義時が大倉薬師堂を建立したのが始まり、1296年、九代執権北条貞時が、元軍が再襲来しないことを祈り、寺に改めた。開山は智海心愛慧。
 その後、火事で焼失したが1354年、足利尊氏によって再建された。この寺は後醍醐天皇の勅願所、足利尊氏の祈願所となり保護を受け、代々の為政者の手厚い保護を受けてきた。
 鎌倉には、谷(やつ)に立っているお寺さんが多いが、この各園寺はその典型的なお寺です。


ひとりの人間の内側にはさまざまな感情が!

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 感情は、あるがままにし、その感情を「外から眺めているような自分」がいた方が良いのでしょうか? 将来や過去を考える癖があると、悩みが増え、現在を主に考える人は悩みが少ない、と言われます。「過去は過去に置いて」、現在中心で行くと良いのでしょう!


厚木 懸仏(かけぼとけ)の「知恩寺」

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 江戸時代には、智恩寺境内にあった山王社にまつられていた懸仏(かけぼとけ)が、現在では本堂の中に保存されています。
 山王権現とは、日吉神社・日枝神社の祭神であり、権現とは仏・菩薩が化身してわが国の神として現れることを意味しています。また懸仏は銅などの円板上に、仏像・神像を半肉彫りにあらわし、柱や壁などにかけて礼拝したもので、特に鎌倉時代から室町時代にかけての資料が多く見られます。


自己投資の効率が良いのは「本」!

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 ネットから得ることができる情報は、自分が得たい情報が中心になります。しかし、本の内容をデータベース化し、そこから、単語で検索し、その情報を組み合わせていくと、自分が思ってもいなかった組合せになったりします。自分の「思い込み」は精神的な老化です。それを取り払って行くには、自分のデータベースは、最初のうちは、自分流のデータが蓄積されますが、数千件、数万件とデータが増えた結果、検索すると、思ってもいないデータが出てきたします!


鎌倉 北条政子の墓といわれている石塔「安養院」

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 安養院の地には、尊観(そんかん)が開いた浄土宗の善導寺(ぜんどうじ)がありましたが焼失しました。北条政子が亡き夫頼朝の冥福を祈って、笹目に建てたともいわれる長楽寺が、兵火に焼かれてしまったため、鎌倉末期にここに移され、政子の法名である安養院を院号とし、これが寺名になったと伝えられています。
 その後、安養院は1680年(延宝8年)の火災で全焼しましたが、源頼朝の家臣田代信綱(のぶつな)が建てた比企ケ谷(ひきがやつ)の田代寺(たしろじ)の田代観音堂を移して再興しました。