1333年(元弘3年)に北条氏が滅亡した後も、北条氏に招かれ円覚寺の住職にもなっていた夢想礎石が、後醍醐天皇や足利氏の信任も厚かったため、寺の勢いは保たれましたが、室町時代には、1374年(応安7年)をはじめとして火災がしばしばあり、しだいに衰えていきました。
1590年(天正18年)、関東に入った徳川家康は、翌年円覚寺の所領を認めましたが、150貫ほどでした。江戸時代はあまり変わりはありませんでした。
幕末・維新の混乱で寺領も失い僧侶が坐禅などの修行をする道場である僧堂も閉じられましたが、1875年(明治8年)、今北洪川(いまきたこうせん)により再興され、関東屈指の禅道場として再生しました。
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鎌倉 敵味方の区別なく慰める「円覚寺」
鎌倉時代の1282年 鎌倉幕府執権北条時宗が元寇(文永の役)戦没者(両軍の兵士)追悼のため中国僧の無学祖元を招いて創建した。北条得宗の祈祷寺となるなど、鎌倉時代を通じて北条氏に保護された。
文永の役(1274年)に続いて、弘安の役(1281年)も起き、弘安の役での戦没者の慰霊も円覚寺の役目となった。
円覚寺の経営を主に支えた荘園は、尾張国富田庄(名古屋市)で、円覚寺の寺僧が派遣され海上交通を利用し結びついていた。
この寺は度重なる兵火や失火等の災害によって多くのお堂を焼失した。現在ある建物は1703年(元禄)の大地震以降再建されたものです。