自分を高めたいという思い、そして、自分に自信がついてきたと思い始めると、自尊心が強いと自惚れてしまうことがあります。
それを抑えるため「謙虚」という言葉が生まれたのでしょうか?
社会の中でうまく暮らして行くには、いくら自分に自信があっても、「謙虚」で生きていかなければ、自惚れ屋として見られてしまいます。
なかには、自信がないのに自惚れ屋でいる人もいますが!
鎌倉 北条氏の氏寺であった「浄光明寺」
「よし、任せておけ」と動いてくれる人、いますか?

自分ですべてやろうとする人、大事な仕事とでも人に任せられる人、違いはどこにあるのでそうか。
自分の出来ることを正確に把握し、また、任せる人の出来ることを正確に把握できる人なのでしょうか。
それとも、ただ面倒がる人なのでしょうか。
子ども時代から、五感が発達した人は、自分が出来ること、出来ないこと、正確に判断できるようです!
厚木 血から生まれた剣の神を祀る「春日神社」
津波が予想されると「石橋を叩いて渡る」など出来ないよ!

最近、地震が多発しています。すると津波が派生することがあります。
海が満潮の時の津波と、干潮の時の津波は、地区によっては被害に差があると思います。
干満の差が50cm程度の地区と、瀬戸内の中央部のように3m程度ある所では、干潮か満潮かにより津波の被害に差があるのでしょう。津波情報ではどのように伝えられるのでしょうか?
尾道瀬戸田 紫田勝家の弟?が再興した「法然寺」
元祖大師法然上人 御遺跡
安芸国 瀬戸田 浄土宗 法然寺
法然上人(浄土宗の開祖)が、四国に御流罪になったとき(鎌倉時代の初め、今から八百年余り昔)、その徳を慕われた後白川法皇のの皇女 如念尼(にょねんに)公は、この島の南側、御寺(みでら)の光明坊にご来寺になって、讃岐(現在の香川県)から上人をお招きになりました。
上人は当地に庵を結び、御寺までお通いになって九十日の間、如念尼公に說法、ご教化されたと言われています。
その後三原の仏通寺(臨済宗)の末寺となっていた時期もあるようですが、江戸時代の初め頃、慶長年間(1607年)に法然上人の御遺跡が荒廃していることを惜しんだ美作涅槃寺(ねはんじ)の一道和尚(紫田勝家公の弟と伝えられています)によって再興され、伽藍が整えられました。本堂、庫裡はいずれも慶長年間の建築です。
劣等感の深刻な人は、「賞賛」を求める!
愛川 「私は半僧です」と答えた「勝楽寺 半僧坊」
イスラエルには、国を失う風土があるのでは?
鎌倉 初の征夷大将軍坂上田村麻呂ゆかりの「巽神社」
「こうでなければ駄目」という考え方ではなく!

自己術現は、社会のルールの中で自己を満足させること。
社会のルールを外れると、当然社会からの反撃に合い、自己実現どころではありません。
社会のルールというものの中に、自分のルールをいかに組み込むか、これが自己実現をするための最低限のルールでしょう!