鎌倉 一遍上人が関所の武士に拒絶され野宿「光照寺」

 光照寺の山門の梁に、十字架を模した30cmほどの紋がいまも残っている。もし、この十字架を模した紋が、隠れキリシタンの遺物だとしたら、そのキリシタンたちはこの鎌倉で、どんな生活をしていたのだろうか。想像するだけでも興味深い。
 光照寺は時宗の寺で、正式には西台山英月院光照寺である。十字架紋のある光照寺の山門は、箱根湯本の早雲寺の末寺だった東渓院山門だったが、同院の廃寺により、山門が光照寺に移されたという。
 東渓院は北鎌倉の北西の大地にあったというから、光照寺とはそれほど離れていないところにあったといえようか。
 臨済宗のお寺だった東渓院は、九州・大分竹田藩の藩主だった中川氏の娘の菩提所として建立されたもの。キリシタン大名のいた九州に領地を持っていた中川氏が、キリシタンと関係があっても不思議ではない。そう考えると十字架を秘した紋を山門に掲げたのもうなずける。
(「鎌倉なるほど事典」より)

仲良くしてもらうためには!

 ネットやAIが一般的になってきた現在、「人づきあい」は少なくなっていくのでしょうね。
 既に都市化で人づきあいが少なくなっており、それが更に進むのでしょうね。
 しかし、ホモサピエンスの歴史は、人づきあいで進化してきており、それが衰えていくとどのようになるのでしょうか?
 日本人は歴史を大事にする民族です。それも衰えていくのでしょうか?

厚木 親鸞が布教の折りに滞在した草庵に「弘徳寺」

 寺の縁起によれば、親鸞が東国布教の折りに滞在した旧跡で、親鸞の嫡男・善鸞がここに草庵を結び心光院と号したのが始まりと伝わる。
 開山・開基は、親鸞の直弟子の信楽ぎょう房。信楽房は平将門の子孫で、俗名を相馬太郎義清といった。
 建暦・元仁期に親鸞が常陸国稲田に布教の折りに門弟となり、その後当山を任せられた。
 墓地に善鸞の墓と伝わる小高い土塚がある。
 明治初期の廃仏毀釈で寺院の荒廃を憂い、当山世話人島崎利助という人が明治10年に自費を投じて墓石を建立した。また、供養塔と思われる「信楽塔」も建立されている。
 『新編相模風土記稿』によれば、かってこの地には地蔵堂があり、親鸞が錫をとどめた旧跡と云われる。

招き猫発祥の地「豪徳寺(東京)」!

 「縁起」を考える時期が地下図いてきました。有名なのは「招き猫」、でも最近はあまり見ないですね。
 でも、七五三では神社で子ども連れで参拝している家族を見掛けます。子どもに対しては、縁起の催しはまだ残っているようです。
 正月の食べ物は、その多くが冷凍の「おせち」になっているのでしょうか?

尾道 瑠璃山という別名を持つ「浄土寺山山頂」

 瑠璃山という別名を持つ山。山麓を瑠璃地区とも云っていた。
 尾道三山で最も高い浄土寺山(瑠璃山)の山頂展望台からの眺めは天下一品。歴史的な雰囲気を残す尾道旧市街地はもちろん、南には瀬戸内海の島々、北には尾道の別の姿を見ることができます。
 特に瀬戸内の島々の遠望が良いです。ここまで登ってくる観光客はまづいません。地元の人でさえ、そんなには登ってはこない静かなところです。
 浄土寺山は”尾道の隠れた名所”といっても良い景色のよいところ。冬の時期、条件が良ければ四国山脈まで一望できます。

二日酔いになるまで飲みすぎる!

 宴会などで困るのは、酒を飲み過ぎて泥酔した人に対する困りごとです。
 組織内で、あるいは日常生活の中で、何かしらのストレスがある人が、酔った勢いで絡んでしまうことです。
 こんな「まとわり」を敬虔すると、あるいは、そんな話しを聞いてしまうと、宴会には参加したくなります。
 軽めの「まとわり」でも、若い人は参加したくないのでしょうね!

鎌倉 元寇戦没者追悼のため創建した「円覚寺」

 鎌倉時代の1282年 鎌倉幕府執権北条時宗が元寇(文永の役)戦没者(両軍の兵士)追悼のため中国僧の無学祖元を招いて創建した。北条得宗の祈祷寺となるなど、鎌倉時代を通じて北条氏に保護された。
 文永の役(1274年)に続いて、弘安の役(1281年)も起き、弘安の役での戦没者の慰霊も円覚寺の役目となった。

 円覚寺の経営を主に支えた荘園は、尾張国富田庄(名古屋市)で、円覚寺の寺僧が派遣され海上交通を利用し結びついていた。
 この寺は度重なる兵火や失火等の災害によって多くのお堂を焼失した。現在ある建物は1703年(元禄)の大地震以降再建されたものです。

だれしも、自己表現欲求のかたまり!

 「自分を認めて貰いたい」は誰でも思っていますね。でも、こっれを主張しすぎると、イヤな人間に見えてしまいます。
 トランプさんを見ていると、自己主張は、人づきあいでは良くないことだと感じますね。
 人の話には、まづ聞くこと、それも反論せずに。自分が受け入れにくい場合は、聞き流すしかないのでしょうね!

相模原南区 石仏たちが集まる「長松寺」

 鎌倉公方足利氏満開基となり、曇芳(どんぽう)(1399年没)を開山として臨済宗建長寺宝珠庵の末寺として建立。
 1430年再建。その後何度か衰退を繰り返したが小田原北条氏の時代お堂が再建された。また、換室宗応(かんしつそうおう)という僧が代官平岡岡右衛門吉道とともに曹洞宗に改宗し、津久井の功雲寺末寺として再度開基された。
 1649年に寺領十石の朱印状(寄進状)が与えられている。

学校とは常に教育を受ける場、知識を授かる場!

 不登校の生徒が増えているようですが、今年は少し減少したようです。
 教科書から提供される情報は、NETから得ることも出来るので、学校の存在価値が減ったためという面もあるのでしょうか?
 不登校は、いじめが原因とされるようですが、最初はいじめなのでしょうが、学校に変わる情報取得方法があるため、むかしよりは不登校の損失が少なくなったようですね!

尾道 むかし北前船が寄港、今は「海の駅」

 ヨットやボートの停泊設備です.
 住吉浜といい、昔から船着場がありました。一部復元されています。
 ここの「海の駅」なのですが、食堂や売店の施設はが、ホテルや食堂、商店街がすぐそばなので、停泊施設以外は造らなかったのでしょう。

 「海の駅」は、瀬戸内海の豊かな自然環境と歴史や文化という貴重な地域の観光資源を多くの皆さんに発信することにより、瀬戸内海の島々への観光客を誘致し、賑わいをもたせて地域経済の活性化と産業振興を図り、人々に安らぎと癒しを与えることを目的に、平成12年3月に広島県豊町に設置された「ゆたかの海の駅」が発祥です。

町内会の会合や地域のボランティア活動!

 自治会または町内会とは、地方自治法により、市町村内の一定の区域に住所を有する者の地縁に基づいて形成された団体です。
 区域の住民相互の連絡、環境の整備、集会施設の維持管理等、良好な地域社会の維持及び形成に資する地域的な共同活動を行っています。とあります。
 しかし、加入者は減る傾向にあります。
 昔にはなかった犯罪や災害が多発する現在、「地縁(住む土地に基づく縁故関係)」は必要度が上がってきています。しかし、現実は災害などが起きないと、地域のつながりを築くのは難しくなってきているようですね!

鎌倉 不思議な雰囲気が漂っている「内藤家墓地」

 磐城平(福島県浜通南部)から日向延岡(宮崎県)へ移封となった内藤家の墓地。
 代々のものが一墓地に建立されている。 高さ3mに及ぶ大宝筺印塔などが多く、他に笠塔婆、仏像形、五輪塔形、各塔婆形がある。
 墓碑58基(宝筺印塔40基、笠塔婆12基、仏像形4基、五輪塔形1基、角塔婆形1基)、 灯籠118基、手水鉢17基、地蔵尊等9基 (鎌倉市教育委員会)

 不思議な雰囲気が漂っている墓地です。 入口は施錠されていて中には入れませんが、道路の位置が2~3m高い位置ですので、よく見えます。今は幼稚園で分離されていますが、光明寺の墓地の一部なのでしょう。このような大規模の大名の墓所がひとつにまとまっているのはめずらしいのだそうです。

わずかな時間でも、ひとりになる時間が必要!

 一人時間を得るため、結婚や子どもを作らない家庭が増えてきているのでしょうか?
 一人時間は、NETで得る情報がどんどん増えてきているため、自分時間がそれに取られてしまいます。
 むかしは、人からの情報が主体だったので、人と人のつながりが必要でした。そういえば、お寺なども情報提供の場だったのでしょう。
 今はNETからの情報が主体で、本から得る情報も少なくなり、閉店する本屋も増えていますね!

厚木 起立時は萬木千草地に満ちていた「宝泉寺」

 宝泉寺は室町時代の後期、1486年に起立。 当時は周囲萬木千草地に満ちて裏山は松が繁り昼なお暗く凄然としており、 そのため別名「松壽林宝泉寺」ともいわれていた。

 現在の地に初めて堂宇を建立したのが、曽我の小林平馬の弟、「宗珍和尚」 で、師は43年間の在住により布教を発展させ今日の基礎を築いた。
 その後6世「悟庵珊道和尚」の時(1654年)、厚木市三田「曹洞宗・ 清源院」6世玉山智存大和尚を法地の開山とし、曹洞宗・宝泉寺の1世に請した。それから今日まで、布教や伽藍・境内地の整備にと壇信徒と共に歩み、19世「大満悦道大和尚」の時に客殿庫裏を、20世「大光真道」の時、現本堂のそれぞれ落慶(2001年)を迎えた。

米は、精製されると毒性が強くなる!

 米の値上がりで、米を食べる回数が1日三食から一食になりました。その一食も玄米を食べるようになりました。
 「お米券」が配られると、お米が三食に戻るのでしょうか? おそらく戻らないでしょうね。
 むかし庶民はお米を食べていなかったようです。そのためか、日清戦争で陸軍は兵隊にお米を食べさせることで、兵隊さんを集めたようです(結果として、脚気で亡くなる人が増えましたが)。
 お米をあまり食べない民族もいますし、他の食材より安くならないと、庶民の食卓より消えていく方向になってしまう可能性もありようです!

尾道 江戸時代、港の中心地「住吉神社」

 1740年、尾道の町奉行に着任し広島藩の平山角左衛門《名誉市民》は、翌年の1741年に住吉浜を築造し尾道発展の基礎を築いた。
 尾道や瀬戸田は、中世から瀬戸内海交易の中継地として発展し、江戸時代においても有数の港町でした。
 さらなる港の活性化に伴い、船の繋留地と荷揚場が必要となり、住吉浜の築造が急務となりました。そこで、広島藩は、直接工事を計画し、1740年尾道町奉行に平山角左衛門が任命されます。平山角左衛門は、翌年工事に着手し、住吉浜を築造します。そして、完成した後には、商人たちの信仰厚い海上守護神であり、浄土寺境内にあった住吉神社をこの埋立地に安置しています。

水というのは塩分の薄い方から濃い方へと移動する!

 地球の温暖化が問題になっています。しかし、温暖化により氷山が融け、海の塩分濃度が薄くなることはそれほど報道されません。
 瀬戸内海では、流入する川の水がキレイになり過ぎ、貝類に影響が出ています。
 海水の塩分濃度の変化も、何かしら生物に影響があるのでしょうね?

北条義時法華堂跡、大江広元の墓

 大江広元、毛利秀光(大江広元の四男…長州藩主・毛利氏の祖)、島津忠久(薩摩藩主・島津氏の祖)の墓。
 発掘調査の結果、ここには北条義蒔(よしとき)の法華堂があったことが確認され、国の史跡となりました。義時は北条時政(ときまさ)の子で、鎌倉幕府の執権た。
 法華堂跡の奥の左側にやぐらがあり、中に五輪塔がならんでいます。これは、鎌倉時代次前半に大きな勢力を持った三浦一族の墓といわれています。
 やぐらの先に鳥居があり、その奥には二列になった石段があります。鳥居をくぐり、石段を上りつめると、石垣に囲まれた中に、古墳時代の末期にみられる横穴墓を改装したやぐらが三つ並んでいます。左側が、大江広元(おおえひろもと)の子で、後の中国地方の大名の毛利氏の祖といわれる毛利季光(すえみつ)の墓といわれます。

ほめ言葉を効果的に使うと!

 さりげなく「ほめる」、日常的に「ほめる」などは、子どもの成長だけでなく、大人でも有効なのです。
 しかし、ほめるには、ほめる側に知識や人を見る目が必要ですね。これがやっかいなので、なかなか人をほめることは難しいですね。
 ただ、「人を非難すること」は誰にでも出来ることですが、「人を褒める」ことは、自分を卑下すると思ってしまうのか難しいですね。
 人を褒めることが出来る人は、立派な人なのでしょうね!