情愛が形づくられる源泉は幼い頃の母子関係にある!

 日本の風土は、他の国に比べて曖昧なようです。
 むかしのむかし(平安時代の中頃まで?)多くの人が移民で日本にやって来ています。
 「移民」という現象は、世界で現在も起きています。その原因は、今住んでいる場所が、戦争や気候変動などで住みにくくなり、住める場所を探して移動する現象です。
 ということは、生きるためのエネルギーがあり、環境変化にも、自分達の工夫で生きていくことができる人達です。
 また、受け入れる側の人達も、移民して来る人達と協力し、工夫し、共生していくことが出来る人達です。
 そのような人達を祖先に持つ日本は、風土が他の国の人達に比べ、「曖昧さ」をうまく活用する風土ができたのでしょうか!

厚木 足利尊氏の位牌と宝篋印塔「聖願寺」

 寺には位牌があり、表に「足利将軍御尊霊」、裏に「足利尊氏公君為御養子文七君菩薩」 「庚永二年三月初三日(1343)」と記されています。
 墓地内には位牌と同じ日付と内容の室町時代の「宝篋印塔」が建立されています。
 参道入口の門塔高さ3mほどの石碑正面に「當国二十七番三田寺」右面に「足利尊氏公古廟」左面に「千手観世音菩薩」裏面に「嘉永四年四月吉日」(1851)と彫り込まれています。
 この史実は尊氏は妻田村・荻野村の領地を有しており、また土地争いの制札を下した記録も江戸幕府の官選資料にあり、この地と寺に何らかの関わりがあったことを思わせます。

「~しなくてはならない」「~でなくてはいけない」思い込み!

 「思い込み」のベースに在るのは、「知識」なのでしょう。
 スペシャリスト指向は、やむを得ず知識優先になってしまいます。この状態をリタイアまで続けてしまうと、新しい思考を受け入れにくくなるようです。つまり。脳の前頭葉をあまり使わなくなるようです。
 これは、認知症の発症危険率が上がってしまうようです。
 年齢を重ねるとき、いろいろな取組の経験は大切なようです!

鎌倉 維新の先駆けと日野俊基卿を祀る「葛原岡神社」

 葛原岡神社は後醍醐天皇の忠臣として鎌倉幕府倒幕に活躍した日野俊基卿をお祀りする神社。
 明治天皇は日野俊基卿の足跡を明治維新の先駆けとして深く追慕せられ、1884年勅旨をもって従三位を追贈され、1887年に最期の地であるここ葛原岡に俊基卿を御祭神として神社を創建、宮内省よりの下賜金をもって御社殿を造営、鎮座祭が執り行われた。一説には、地名の起りは葛原親王・鎌倉権五郎景政を祭神とする梶原の御霊社の故地であったことに因むという。
 いわば南北朝のリターンマッチとして堀起したのが、桂小五郎をはじめとする長州の倒幕派です。薩摩の立場も南朝論であり、大久保利通や西郷隆盛が立ち上がったのは「南朝こそ正統であり、北朝は偽王朝である」という理念を実現するためです。

感性豊かに育った子ども、人間関係もうまくゆく大人に!

 現在は、教わった知識、入手した情報中心で自分の行動を決めている人が多くなっているようです。
 子供時代に、自然の中で遊び、また年齢の違う人達(むかしは「ガキ大将」を中心とする仲間)と接していると、感性が磨かれ、自分の考えが広がってくるようです。
 考えが広がると、それぞれの場面で、複数の案が浮かび、自分の行動を無意識に選べるようになるようです。
 むかしは、社会の中で暮らすことが最優先だったようです、現在は個人優先の世の中になっていますが!

福山 昔の商人の姿が残る「鞆の津の商家」

 「鞆の津の商家」は、江戸時代末に建築された建物で、かつて「鞆製網合資会社」などに用いられていましたが、今日では市の重要文化財に指定され再生・保存されています。外観の美しい建物ですが、なかでも正面右側の土蔵は、2階建ての町家に見えるようにひさしを設けており、他に例を見ないユニークな意匠となっています。

 町家の多くは合併や増築によって造られており、一時期に一気に新築されたものは珍しい。
 これは、特に繁華な港町における町家の浮沈の激しさを反映していると思われます。
 もちろん、町家を新築する際には古材を再利用するのが当たり前で、そのことが建築年代の判定を著しく困難にしています。

前頭葉を使わないようにする技術は人類にプラスなのか?

 最近、老化予防のため「歩く」ことが重視されているようです。からだの老化予防には効果があるのでしょうが、認知症にはどの程度の効果が見込まれるのでしょうか?
 また、便利になり過ぎ、家電の自動化が進み、ネットで簡単に情報を得ることができ、自分で考えることが少なくなってきたようです。
 頭の中で消費するエネルギーも、おそらく少なくてすむことでしょう。ただ心配なのは、頭に供給するエネルギーが以前のままだと、当然余ってしまいます。その余ったエネルギーが脳内に溜まっていかなければよいのですが!

尾道 1928年大火で焼失、海岸から移転「海徳寺」

 1926年10月12日の早暁、不幸大火のため全山焼亡、1928年現在地に移転新築しました。

 むかしは、防地川河口にありました。広大な境内を有する通称「沖の道場」と呼ばれ、市の発展につれて周辺に民家が建ち並び、境内が広かったので、サーカス興行や相撲の興行があって、名力士常陸山、梅ヶ谷、太刀山、鳳などの勇姿も見られたそうです。

 その頃は、本堂の東側に一本の古松があって、竜神がその梢に燈明を献じるというので、その松は「竜燈松」と呼ばれていたそうです。

 一遍上人が諸国遊行の途中、尾道に草庵を結んで念仏勧進されたのにはじまると言われています。

アメリカは貿易赤字や財政赤字を日本ほど心配する必要がない!

 今回の衆議院選挙では、財政赤字解消についての政策は、語られていない。むしろ財政赤字が増えていく政策ばかりのようだった。
 財政赤字のつけは、若者達への影響が大きいが、投票率は若者の方が低いようです。
 教育の無償化についても、稼げる人達を増やし、納税額を増やし、あるいは、納税企業を増やし、財政赤字の解消の視点で、政策のアピールをしてほしかったのですが、残念。

座間 美濃齋藤氏の遺臣が開拓し祀る「日枝大神」

 当社の創建は、元亀年間(1570~1573)と伝えられています。

 創建者は織田信長に敗れた美濃国(岐阜県)の齋藤龍興(道三の孫)の遺臣四名で、この地を開拓し祭神を四ツ谷の氏神として祀ったと伝えられています。
 宝暦十三年(1763)に火災にあい、七十八年後の天保十二年(1841)に再建、棟札に「山王大権現」と記され、手水石や諏訪社の祠の奉納年号から見ると、社域もこのころから整えられてきたようです。

 明治二年(1869)、「山王大権現」から「日枝神社」に改称、祭神も「大山咋命」に変わり、同六年には村社に列され、同十八年八月に再遷宮の記録があります。

途上国、あそこに行けば、なんとかなるだろう、と大都会に行く!

 現代の日本では、大都会に行く人は就職などが決まっている人達がほとんどでしょう。
 しかし、後進国での大都会は、家族を養うため「仕事を求めて」という人が数多くいます。仕事も決まっていないため路上生活になってしまいます。
 そのためか、日本の路上生活者より元気なようです。
 日本でも、むかしはそのようなスタイルだったのでしょうね。そういえば大都会ではないですが、南米やハワイへの移住、満州開拓など多くの日本人が移住していますね!

ダイズの豆は炭水化物に加えてタンパク質・脂質を含む!

 この寺の裏山は、かって源頼朝が由比ケ浜の放生会(ほうじょうえ)を見物するために、展望台のような桟敷を設けたところだといわれています。後に、ここに住んだ将軍宗尊親王(むねたかしんのう)の家臣で、日蓮宗の信者であった兵衛左衛門の妻は桟敷尼と呼ばれました。桟敷尼は、1271年(文永8年) 9月12日、捕われの身となった日蓮(にちれん)が馬で龍ノ口(たつのくち)の刑場に引かれていくとき、ごまのぼたもちを作って日蓮に「仏のご加護がありますように」と差し上げたということです。このぼたもちのおかげでしょうか、処刑されそうになった日蓮を助ける奇蹟が起こりました。このことから、「首つぎのぽたもち」ともいわれ、有名になりました。

ダイズの豆は炭水化物に加えてタンパク質・脂質を含む!

 豆腐、納豆、味噌など大豆を利用した食品は、からだに良いと推奨されています。
 徳川家康と三河の赤味噌、武田信玄と信州味噌、伊達政宗と仙台味噌など、戦国時代に栄養豊富な保存食として飛躍的に発展をしました。
 また、いろいろな食材と相性が良く、ご飯と味噌汁、納豆、豆腐、醤油などの組み合わせは栄養学的にも最高のもので、日本人の健康・長寿にとって、大切な食物の一つになっているのでしょう!

座間 裏山から湧水 し、水量も豊富「心岩寺」

 開山年代は寛正元(1460)年頃で、鎌倉建長寺第七十五世悦岩興惟禅師の法弟成英玉大和尚が開山し、この地の郷士白井織部是房が開基となって、白井氏の持仏堂を寺としたものと伝えている。
 当山の記録によると、山号は初め久光山心願寺、後に座間山心巌寺、そして江戸時代になって座間山心岩寺と改められている。
 開山以来五百数十年、法嗣二十二世この間法灯絶えることなく栄えている。

いま「良心」が最も感じられない人たちは政治家!

 衆議院選挙が済みました。しかし、当選した政治家(与党も、野党も)は、「最も良心が感じられない人達」と、思われていることを忘れないでほしいですね。
 権力や名誉、財力を持つと、良心よりも、権力や名誉などが優先し、良心は忘れられるようですね。
 歴史も権力を手に入れると、自分に都合の悪い情報は、まず、流れないようにし、抹消するか、都合の良いように書き換えるようです。
 歴史的な文献も、残されているものは、どうもそのようです!

尾道 もともとは海徳寺の鎮守だった「勇徳稲荷神社」

 祭神:倉稲魂命(うかのみたまのみこと) 須佐之男命(すさのおのみこと)
 もともとは海徳寺の鎮守であったが、1926年海徳寺が火災にあい、山手に引っ越した。そのため、神社は独立しました。
 現在でこそ、神道と仏教は明確に区別されていますが、明治時代までは、両者の境界線は非常にあいまいでした。
 仏教寺院を建てるさい、その土地で古来あがめられてきた神さまを、寺の守護神(鎮守)としてまつることが、ごくふつうに行なわれるようになり、神社とお寺が同じ敷地内に同居することも、あたりまえになったのです。
 こうした傾向を、「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」と呼びます。神社とお寺が分離されたのは、明治時代に「神仏判然令(しんぶつはんぜんれい)」が出されてからなのです。

歩く趣味は、足腰を鍛えるだけでなく、脳も若返らせる!

 「満足」という言葉が在ります。なぜ「足を満たす」のでしょうか?
 「充足」という言葉もあります。また 「不足」という言葉もあります。
 むかしから、歩くことが大事だと気づいていたのでしょうか。
 しかし、歩き方については、一般的には習うことはそれほどありません。
 坂道が多く、クルマが使えない地域では、歩き方に違いがあるようです。
 足を前に出すとき、太ももの筋肉ではなく、腰の筋肉を多く使っているようです。太ももの筋肉は、足を上下に動かすときに使っているようです。
 確かに、腰の筋肉で足を前に出すように心掛けると、疲れても歩けますね!

鎌倉 目の神様として親しまれている「御霊神社」

 境内には、樹齢約350年、高さ20mのタブの木が高く枝を繁らせています。その下を進むと正面の石段があり、上がった所が社殿です。屋根には金色の二枚の矢羽根がついています。祭神である鎌倉権五郎景正の紋章が社紋となっていると伝えられています。拝殿の脇に彫刻があり、後ろの本殿にも豊かな彫刻がほどこされていて、立派な造りであることは、後ろに回るとよくわかります。社殿に向かって右側に、「景正の袂石(たもといし)」(約38kg)や「景正の手玉石(てだまいし)」(約68kg)という丸い石があります。また、社殿の前には「弓立ての松」が置かれています。これは景正が領内をまわるときに弓をたてかけて休んだという松の木の一部だといわれていますが、900年の年月を経て中が腐って穴があいたようになっています。いずれも景正の力が強かったことを伝えるものです。
 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より

薩摩芋は甘いので野菜のうちには入らない?

 糖尿病の原因は、高カロリー食品である高脂肪食品の摂取過剰と、糖分を消費する最大の器官である筋肉による労働や運動の不足が原因のようです。
 米が主食で、おかずは野菜だった頃、糖尿病はそんなに聞きませんでした。
 米の消費量は1955年と比べると約半分になっているそうです。ということは、生産量も半分になっているのでしょうね。
 円安でしかも食糧の自給率も少ない日本、米の料理法や米の生産場所の拡大などを、考えなければいけない時期が迫っているのでしょうね!

愛川 半僧坊大権現を祀る「勝楽寺」

 山門に立ち、伽藍を護る仁王は共通して一面二臂の怒怒相。上半身は裸で筋骨隆々、下半身は裳をたくし上げています。金剛杵が代表的な持物です。
 もともとは、執金剛神(しゅこんごうしん)という、釈迦を守護する独尊でしたが、しだいに二体一対で安置されるようになりました。基本は、口を開いた阿形(あぎょう)が向かって右(東)、口を結んだ吽形(うんぎょう)が左(西)です。阿形を金剛や金剛力士、吽形を力士や密迹(みっしゃく)力士と呼ぶこともあります。(「イラストでわかる『日本の仏さま』」 日本の仏研究会より)