日本的な社会では!

 「努力」と「結果」は必ずしも比例しない。しかし、努力した側は、その努力を評価して欲しい、と考える傾向がある。
 西洋的な考えでは、「結果が全て」、この考え方が日本にも普及してきた。
 その結果、自分の担当範囲を狭くし、それを深くしていったほうが、結果を出しやすくなる。
 そのためかスペシャリストを目指す人が多くなっているのでしょうか。
 知識の範囲が狭くなると、目の視野が狭くなるのと同様に、見えなくなっている分野が多くなるが、目と違って、それに気がつきにくくなります!

「いいこと」を考えるというのは!

 ネット社会になり、「他人を落とす」書き込み情報が発信されています。このような情報は、むかしから週刊誌で発信されていました。ということは、今に始まったことではなく、人眼のサガなのですね。
 このような情報に接したときは、「発信者は能力の無いもの」と考えるしかないですね。しかし、この情報を発信してしまうと、自分は力の無い者になってしまいます!

組織とのつきあい方は工夫が必要!

 実力や実績が重視される世の中、その結果、スペシャリスト指向が強くなっています。そのためか、能力な範囲が深くはなるのですが、どんどん狭くなっています。
 異なる視点からものごとを見ることができないため、世の中が変化しているときは、その変化に対応できません。
 変化に対応できない、という生き方は、仕事を失ったとき、あるいは、リタイヤしたとき、その後の人生の幅を広げることが出来ないまま過ごすことになります。
 長寿社会の現在、なんとか工夫をしなければならないですね!

みずからの高ぶりをコントロール!

 ネット社会になり、「ひと言多い」場面をよく目にするようになりました。その影響かテレビでもよく目にします。
 自分にブレーキをかけることができない人が増えているようです。
 これは核家族が増加した影響なのでしょうか。「気を使う」あるいは「我慢する」ということが、日常の生活で少なくなったためでしょうね。
 大家族ですと、いろいろと気遣いが必要なため、その環境で生活すると「自分をコントロール」する力がつくのでしょうね!

学問は大いにやりながら、それにとらわれない!

 学問にとらわれると、なぜか視野が狭くなりやすい。視野が狭いが、深くなっていく。狭く・深くなりがちなのは、社会のしくみとして、出世しやすいからなのでしょうか。
 学問はした上で、その学んだことをいかに捨てていくか。
 いまの社会は、記憶力がよい人が、学問をする傾向があるので、学んだことを捨てることができない。その結果、イライラ社会になっているのでしょう。SNSの情報には、考え方の狭さを感じさせるものが比較的多いようですね。
 イライラを減らすには、「いい加減」が良いのでしょうね!

好きなことを知ってはじめて仕事は回る!

 仕事の処理が得意な分野と、その人が好きな分野は必ずしも一致しません。好きなことは、時間がたつのを忘れて取り組んでしまうため、必ずしも効率的とは言い切れません。
 しかし、好きな分野は、どんなに困難があろうとも、なんとか乗り越えようと取り組んで行くことができます。
 時代が変化しているときは、好きなことに取り組むべきなのでしょう!

集中しておしゃべりしたあとは気が緩むもの!

 SNSなどでの情報交換が増えています。しかし、そこでは文字情報だけです。しかし、文字情報だけでは限界があります。その限界を感じ、乗り越えるために、絵文字がつくられました。
 日本語は、英語と違って、文字情報だけでは不十分です。言葉では「イヤ」と言いながら、その表情は{イエス」の場合もよくあります。
 英語を日本語に訳すのは比較的楽ですが、日本語を英語に訳すには、場面によってはかなり難しいですね。
 幼い時から英語教育をすると、複雑な日本の風土の理解が、難しくなることはないのでしょうか?

「ホンネ」か、「タテマエ」か、まず疑ってかかる!

 ホンネ=本音(本当の音色)は、三味線や琴、太鼓などの日本の楽器、あるいは、演歌は、西洋の楽器や音楽のように倍音だけで構成されてはいません。音のゆらせ方が特殊なようです。
 その影響かどうかはわかりませんが、世間では「ホンネ」と「タテマエ」の両方が通用しています。そのような社会では、「ホンネ」を知った上で、「タテマエ」で対応していくことが大事なようです!

他人からバカにされたくない!

 誰でも、他人からバカにされることはつらいもの。それが、小学校から「いじめ」というかたちで起きているようです。
 その基本に、優劣をつけることがあるのですが、昨今の情報化社会では、その「劣」情報が拡散してしまいます。
 小学校から始まるテストや通知表により、優劣評価の中で育っています。しかも、ヒトの能力の内の一部だけ取り上げて、しかも、それが全てのような評価をしてきました。
 いつの間にか、人を含めたものごとを、優劣をつけないで、ありのまま観察する能力が、身につかなくなっているのでしょうね!

自説にこだわるあまり孤立!

 経験を積むほど、その分野の知識は増えてきます。しかし、その分野以外の情報は、意識はしていないのですが入ってこなくなります。特に男性は。
 その結果、自分の分野での優位性を武器にするようになります。それが進行したまま、歳を取っていくと、頑固で融通の利かない老後になってしまいます。
 人生の半ばを過ぎると、多彩な情報に触れるようにしないといけないですね!

安全とはリスクのない状態ではない!

 「安全」というのは、危険に対して、その危険を回避する(または最小の被害で済ます)ことです。ということは、危険なとき、対応する能力(ときには反射的)を身につけておくことです。
 急に、命に関わる危険が発生したとき、時間がゆっくり流れ(例えば、1秒が10秒くらい)、周囲の状況をつかみ、冷静に対応の方法を決めます。この能力は、子供時代の暮らしの中で身につくのでしょうか? まるでスローモーションのように時間が流れます。
 昨今は、危険予報の情報が早めに発信され、防災用具や食料が整備されていますので、安全を手に入れやすい社会になっています。ただし、そのような環境にあっても、危険に関わる対応は、気を緩めてはいけませんね!

脚がつるのは!

 足がつるのは、やはりキツイですね。足がつったとき、足の親指を上にきつく上げたりしていますが、効果があるのかどうかわかりません。
 起きている間なら、なんとか予防の余地があるのですが、寝ている間は、なかなか難しいですね。やはり、頭寒足熱がよいのでしょうか?

自分に固執しまったら!

 「自分」というものを持ちながら、「他人を誉める」ことは案外難しいものです。どうしても他人を誉めると、自分がその人より下になるのでは? と、思ってしまうのでしょうか。
 プライドというものは、人間以外の動物は持っているのでしょうか?
 我々は、人同士に限らず、食べ物でも、住んでいる場所でも、何にでも優劣をつけてしまいます。
 本来、生きていくために(生き延びるために)優劣をつけたのでしょうが、その感覚がどんどん広がって、何にでも優劣をつけるようになったのでしょうか? 

健全な〈からだ〉とは!

 年齢を重ねると、やはり健康が一番。しかし、健康というものは、子供時代からの積み重ね。多くの人は、若い時代には気がつきませんよね。
 しかし、寝込んでいなくても、ときどき、からだのどこかに不調を感じている人は、少なからずおられるのでしょう。
 一時的であれ、不調を感じたとき、健康的な生活について、深く考え、健康的な生活を継続実践できる人は、歳を取っても健康を手に入れる可能性が高いのでしょう!

役割を誇示すること!

 オイルショックの頃、トヨタの「小集団活動」が製造業に広がりました。この活動は、「現状をありのまま」に把握する。それも出来るだけ数値化する(数値化で、より先入観を排除する)。しかも、現状把握に活動時間の9割以上を費やす。
 そして、改善策を検討するときは、役職に関係なく、どんな意見もリストアップする。他人の意見に分乗してのアイディア出しもOK。
 改善案が出た後は、それぞれの案を比較評価し、全員で個別の案を比較し採点する。その中から上位の2~3の案の具体化を検討しテストする、といった手法でした。
 それが製造業に普及し、高度成長の源になっていったのでしょう!
 

南蛮貿易でもたらされた多くの武器!

 武器輸出の背景をもっと意識する必要があるようです。少しでも危険が予想される国々では、最新の武器をそろえたいもの。
 そこで問題になるのが、古くなってしまった武器です。その処分は、お金だけでなく、危険も伴います。そこで手っ取り早く処分するには、戦争をやっている国に輸出することです。または、戦争を起こすことです。
 すると、高額な武器輸出代金か、低コストの処分費で済みます。
 昔は宣教師も武器商人でした。いまでも良いことをしているふりをして、古い武器を輸出、あるいは、武器援助している商人がいることでしょう!

聞き上手だからこそ耳寄りな情報が入る!

 ネット社会になり、情報発信力が注目されます。しかし「聞く力」にもっと注目したいですね。そのためには、多様な知識を持ち、しかも相手の立場で考える力が必要です。
 自分が情報を発信しているだけでは、多様な情報を、自分のものにする力はつきません。思い込みを助長していくだけです!

教育は学校だけでやるもの?

 教育は学校教育だけでは、片寄ってしまいます。そのためか一方的な考え方になり、いじめや異常な犯罪が起きている一因になっているのでしょうか?
 むかし、小学校の家庭科で「新鮮な魚の見分け方」を教わりました。私の体験と大きく異なっていました。私の体験では、「魚にさわって動くかどうか」、「タコやイカは吸盤が吸い付くかどうか」でした。
 知識というものは、「ある場面での正解」です。そのためには、現状を洩れなく観察した上で、どの知識を適用したら良いのか、あるいは、もっと調べなければ、ということになるのでしょう。
 固定観念を植えつけてしまう教育は、ほんとうの教育なのでしょうか?

言い分があると聞く力が弱くなる!

 自分に言い分があると、人の話が耳に入らなくなります。また、自分が興味を持っている話しは、その部分のみが頭に入ってきます。
 ということは、幅広い知識や情報を持つことが、いかに難しいかを物語っています。
 自分が一貫性を持ってしまうと、他の知識や情報を受け入れることができなくなり、それが極端になってしまうと、プーチンさんのようになってしまうかも知れませんね。
 やはり「いいかげん」、「曖昧」のほうが、多様な知識を受け入れやすいのでしょうね!

“ひと言多い”は命とり!

 自分を認めて貰いたいという思いが叶っていないと、「一言多い」ことになりやすいようです。世間は「そんなもんだ」と築けば、人の評価などはそれほど気にならなくなるのですが。
 また、他人の良さに目が行くようになると、一言が「ほめ言葉」になるのですが。
 しかし、どうしても他人の悪いところに目がいってしまいますね!