| 「やらされた感」を一番感じるのはマスコミです。視聴率アップのため、スポンサー確保のため、販売部数増加のため、あるいは、出演回数を増やすため(減らさないため)などを感じてしまいます。 オリンピックで元選手のコメントには「やらされた感」を感じることはあまりないのですが、コメンテーター(解説・評論する人)の人達には、なにかしらの「やらされた感」を感じてしまいます。 演出なのかも知れませんが、「状況・事実の把握」に対する熱心さをあまり感じることができません。ある面だけを捉えてコメントしているようです。 最近は、スペシャリスト指向で、ゼネラリスト(広範な分野の知識・技術・経験をもつ人)として努力していこうとする人が少なくなっているのでしょうね! |
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1ヵ所に留まりすぎている=同じことをやっている!
| 壁に突き当たっているときは、自分のアタマ中心で考えてしまいます。そこに、状況の把握、他人の意見を取り込める余裕はありません。 新コロナでの対策も壁に突き当たっています。専門家集団はアタマだけで考えているから、ということも関係しているのでしょうか。 専門家達の中の摩擦型の人は、頭が切れ、何かにつけて確信的です。また、自分の流儀を強引に押し通そうとします。彼らは他人をいらだたせ、苦しめるという性向を持っている面もあります。時には「ありのままを語る」という口実のもとに他人を批判し、攻撃しながら、当の相手の感情をまるで理解しません。彼らは自分よりアタマの回転の遅い人たちには我慢がならない。そして、自分の論理を、唯一の正しい意見として、他のみんなが受け入れることを期待します。実は、この手の人の多くは「意見」なるものはもっていません。ただ「事実をはっきりと自分流に見ている」だけです。専門家の知識は、現在の情報を「過去の知識」で解釈してしまいます。 ずいぶん昔に製造業に広まったトヨタ流の改善手法など、もれのない現状把握に95%位の力をつぎ込んだ後、そこから見えてくる改善案などにも取り組んでみたらどうなのでしょうか。これはマスコミの情報伝達にもいえると思うのですが! |
『有用な人材』になるとは限らない!
共同体での「有用な人材」とは、やはり、その共同体において何かしらのメリットを生む“しくみ”をつくる人、また、そのしくみを有効に活用していく人なのでしょう。それがお金に関係しているかどうかは別にしてです。
昔からの共同体に残っている通過儀礼は、共同体のしくみを担当できる人として周りの人たちから認められる、という儀式なのでしょう。
農耕文化が始まる以前は、他の動物と同じように、共同体の必要性はほとんどなく、家族を中心として単位で生き残り作戦を行っていたのでしょう。
しかし、農耕社会になると共同体は大きくなり、それぞれの役割ができ、周りの人達と協力していかないと、生き残っていけなくなったのでしょう!
自分でつくった固定観念から解放!
豊かさを受け取ったら出す!
「目標を設定して努力をする」と、よく言います。それも、できるだけ明確な目標を立てて取り組むこと、と。 確かにそうなのでしょう。しかし、世の中が大きく変化しているとき、あるいは、まだ正解が見つかっていない事に取り組むとき、こんな時は明確な目標の設定はできません。だから、何かしらやっていることに、何かしらの楽しみを見つけなければ長続きしません。
今の勉強法は「答えがある」という前提の上に成り立っています。それも、できるだけ狭い(専門の)範囲で考えると、より良い答えが見つかる、という考え方です。
話は変わりますが、新コロナの対策でも、失業で自殺する人の数は新コロナの死亡数にはカウントされません。専門家会議の検討対象外なのです。また、一年半経過したにもかかわらす、各病院の枠を越えた組織化、非常時の専門スタッフの担当範囲の見直し、専門外の人の応援態勢の整備、全体の組織化などが、バラツキがあり進んでいかないようです。専門家ほど、考える範囲が狭く、これが平和ボケなのでしょうね!



















