座間 行基が金光星の如く輝くのを見た「星谷寺」

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 行基菩薩が諸国教化の際当地で金光星の如く山谷に輝くのを見て、自ら聖観音の像を彫刻し、堂宇を営み星の谷観音堂として建立されたもの。
 観音堂は鎌倉時代に焼失し、現在地に移されたと伝えられる。江戸時代には、坂東三十三ヶ所の第八番として崇敬を集め、1591年には徳川家康より寺領2石の朱印状を拝領している。関東以北では2番目に古いという梵鐘の他、星谷寺七不思議など古くからの言い伝えが数多くある。
 古くから「星谷寺の七不思議」(銅鐘・星の井・楠の化石・咲き分け散りの椿・観音草・根不断開花の桜・下りの紅葉)の言い伝えがある。

 仏教の布教が禁止された時代に、階層を問わず困窮者を救うため布教を行った行基。民衆から絶大な支持を得て、日本で初めて大僧正の位を授かった。また、奈良の東大寺造立の際には責任者にも任命されている。
 富山県高岡市に残る伝説によれば、かつて越中国(えっちゅうのくに)で悪王子(あくおうじ)という名の妖怪が民衆に生贄を要求していた時、天皇の命で越中国に赴き、これと対決して封じ込めたという。