尾道 五重塔から三重塔へ「天寧寺 三重塔」

 「五重塔から三重塔へ」という珍しい三重塔があります。当初は五重塔だったのですが、その後、四重と五重の傷みが激しくなったため、四重と五重を取り除いて、三重の上に新たに屋根をかけ、三重塔に姿を変えているのです。重要文化財に指定されています。建立は1388年(嘉慶2年)。三重塔に姿を変えたのは、それから300年後の1692年(元禄5年)のことでした。
 本当に最初は五重塔だったのだろうかと疑う人もいるかもしれませんが、まず、五重塔の姿で描かれた古い時代の掛け軸が残っている。それに加えて、この三重塔は心柱が下まで通っている。五重塔では心柱を下まで通しますが、三重塔では初重の上から心柱を立てるのが普通です。梁の上に心柱を立てるのです。

倹約遺伝子を持っているとやせにくい!

 貧しい人が夢を持って移住してきたアメリカ。いつまでも能力主義を貫く風土ができているようです。そのためか、格差社会は許容されているのでしょう。その影響がからだの健康問題に影響しています。また、精神的な健康にも影響しているのでしょうか? 日本には、政権支配に敗れた人達が逃れてきた人が多いのでしょうか。みんなで耐える力が強く、また、分け与える風土もできたのでしょう。ただし、日本が能力主義に走っている(戦国時代や、高度成長期まど)ときは、みんなで協力し合う力が弱くなってしまうのですが。災害の頻発や新コロナの伝染で社会に変化が起き、協力する風土が復活してきているようです!

尾道 ピラミッド型に積まれ無縁仏塚「正授院」

 1394年の開基で、もとは禅宗であったが、1596~1614年純誉によって浄土宗に改宗された。本尊は阿弥陀如来。1698~1703年の頃、中興諦誉良頓が発願し常念仏を始めた。
 江戸増上寺法王祐天上人がこのことを賞し、五代将軍綱吉やその母桂昌院にも上申して、家康、秀忠、家光、家綱の歴代将軍とその御台所の尊碑、仏像並びに葵紋付香爐などを下賜された。
 この寺の了般は累進して増上寺四十二世の法主となり大僧正に昇爵した。 鐘楼の南には常念仏一万日ごとに一基、合わせた五基の石柱が並び立ち五万日常念仏成就の功を物語っている。
 明治時代には、外留学の先覚者土居咲吾が、この正授院でも英語塾を開いて後進を導いた。

NIMBY(ニンビー)の法則

 自己中心の基礎となっているものは、「思い込み」のようです。データで裏付けがあるようなものでも、その中には、都合の良いデータだけを取り出し、裏付けしたものもあります。森元首相の「会議のメンバーに女性が多いと時間がかかる」という発言は、思い込みなのか、データで裏づけられるのか、分かりませんが、大きな批判を浴びています。マスコミも、批判を流せば視聴率が上がると考え、実際のデータを調べようともしていないようです。正確な現状把握がなければ、的確な改善活動は始まりません。女性の地位の向上は、事実を正確にもれなく把握し、改善していかなければ向上しません。感情論だけでは一時的なもので終わってしまいます!

厚木 戦国毛利氏の祖 季光ゆかりの「光福寺」

 最初は浄土宗で教念寺と称したが、後に廃絶して正福寺となった。鎌倉幕府の頃の創建で、開山は隆寛律師。律師(1148~1227)、字は皆空(また道空)無我)は以前は天台宗だったが、後に法然上人の浄土宗に移り念仏を説いて継承、法然上人入寂(1212)の祭は五十七日の同士をつとめた。が、比叡山の宗徒の反発“念仏宗の集団化をおそれての弾圧”を受けて、安貞元年(1227)に流罪に処せられた。
 毛利庄(今の厚木市内)の領主毛利季光(すえみつ)入道西阿は送領使となったが、隆寛に帰依きえし奥州喜多方へ送る途中、毛利庄に移し飯山の郷に匿かくまい住ませたという。

目は多くを語ります!

 人と接するとき、「自分=思い込み」をいかに捨てて接することができるか。子ども時代は「自立」がひとつの目標でしたが、歳を刻んで行くにつれて、自分の中に溜まってくる“思い込み”を、いかに横に置いて、他人と接することができるか、が大事ですね。子どもはやむを得ない面もあるのですが、大人は、ものすごく意識していないと、“思い込み”から脱出することができないですね!

鎌倉 洋画家の黒田清輝がアトリエに使った「啓運寺」

 開山は啓運日澄(けいうんにっちょう)です。日澄は、大町名越(おおまちなごえ)の同じ日蓮宗の妙法寺(みょうほうじ)の住職をしていましたが、1483年(文明15年) にこの啓運寺を創立したということです。創立当時お堂は、松葉ケ谷(まつばがやつ)に建てられましたが、その後現在の場所に移転してきたといわれています。
 明治の中ごろ、洋画家として有名な黒田清輝が、この寺の本堂をアトリエに使い、「日蓮の辻説法(つじせっぽう)」の名画を描いたということです。

未来にフタをする言葉!

 相手の価値観を否定するとき、相手の立場になって考えてから、相手を否定することはまずありません。おそらく、自立した人は、どんなときにでも「相手の立場で考える」ことができるのでしょう。能力主義の時代、相手の立場で考えることは、大変難しいことなのでしょう。戦国時代や今の時代は能力主義の時代で、自分のことしか考えない人が、能力を発揮する時代のようです!