「葛原岡神社、日野俊基朝臣の墓が建てられた背景」
室町時代から天皇家は北朝の流れが続き、南朝の天皇の手から政権を収奪したまま、幕末まで至ります。そして明治維新が起こるのですが、この維新も幕府を倒して実現した王政復古です。
いわば南北朝のリターンマッチとして堀起したのが、桂小五郎をはじめとする長州の倒幕派です。薩摩の立場も南朝論であり、大久保利通や西郷隆盛が立ち上がったのは「南朝こそ正統であり、北朝は偽王朝である」という理念を実現するためです。
長きにわたり北朝が帝位についているのは、大名が日本の政府を聾断(ろうだん)したからであり、理念からは正統な「南朝」に政権をお戻しすることこそ国の基を正す道である、と考えました。
これほどの深く、かつ生々しい思想・理念の大闘争が、明治維新の本質なのです。
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鎌倉 明治の王政復古で祀られた「日野俊基朝臣の墓」
日野俊基は、討幕運動の先駆者として、明治天皇が、忠臣として再評価されました。
明治維新後、後醍醐天皇に忠義を尽くした人達が人達が祀られました。
1331年、後醍醐天皇は二度目の倒幕計画を企てたが、これが露見し、日野俊基は再び捕らえられ、翌年、葛原ヶ岡で処刑された。
日野俊基は、鎌倉に入ることなく仮粧坂の葛原ヶ岡で斬首されたと伝えられている。
明治維新は、幕府を倒して実現した王政復古で、いわば南北朝のリターンマッチとして堀起したと位置づけられたようです。