福山 戦国時代、安国寺恵瓊が再興した「安国寺」

 この安国寺の歴史が再発見されたのは1949(昭和24)年。解体修理が行われた安国寺の阿弥陀三尊像の中から古文書が見つかった時である。
 安国寺は本来、金宝寺。室町時代に寺社名、歴史が書き換えられたと分かった。
 阿弥陀三尊像、法燈国師坐像やこれらを収める釈迦堂など、安国寺は国、県指定文化財を蔵するが、すべて金宝寺時代のものだと判明した。
(「知っとく? ふくやま」 監修 松本卓臣/平井隆夫より)

 安国寺の住持を務めていた安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)という人物。

 恵瓊は戦国時代から安土桃山時代にかけての人物で、京都の東福寺と更には安芸と鞆の両安国寺の住持を兼務する臨済宗の僧でありながら、毛利氏三代(毛利元就・隆元・輝元)に仕えた武将としても名を馳せました。

 更には豊臣秀吉にも重用され大変な実力者となりましたが、関ヶ原の戦い(1600年)で西軍の拡大に暗躍(ひそかに策動)したが敗北。後に捕まり死罪となってしまいました。

 それにより安国寺は衰退。東福寺の力が薄れた安国寺が江戸初期に京都妙心寺の末寺となったことから、安国寺と関わりが深かった当寺もそれと同じ道をたどり、東福寺派から妙心寺派へと改まったものと考えられます。

福山 鞆 戦国時代、安国寺恵瓊が再興した「安国寺」

 無本覚心(法燈国師)を開山として、1273年(文永十年)に釈迦堂(仏殿)を、翌年に阿弥陀三尊像を造立した『金宝寺』が、備後安国寺の前身です。
 安国寺の歴史が再発見されたのは1949(昭和24)年。解体修理が行われた安国寺の阿弥陀三尊像の中から古文書が見つかった時です。
 安国寺は本来、金宝寺。室町時代に寺社名、歴史が書き換えられたと分かりました。阿弥陀三尊像、法燈国師坐像やこれらを収める釈迦堂など、すべて金宝寺時代のものだと判明しました。

福山 鞆 元は金宝寺、室町時代寺社名と歴史を換えた「安国寺」

 鎌倉時代に創建され、室町時代に足利尊氏により安国寺と改称された臨済宗の寺。
 安国寺は、南北朝動乱の戦死者を弔うために、足利尊氏・直義兄弟が国ごとに造ったお寺です。この鞆の浦にある「備後安国寺」も、「1339(暦応2)年に尊氏が建立した」という『鞆浦志』(1748年)の記載から、室町時代の建物と考えられていました。
 しかし、後の調査によって鎌倉時代に、金宝寺として創建されたものと判明しました。
 国の重要文化財「安国寺釈迦堂」を筆頭に、作庭家・重森三玲が復元した枯山水庭園や本尊の「阿弥陀三尊像」、それに、「法燈国師坐像」など、文化財の宝庫です。