鎌倉 鎌倉の北西から武蔵方面に抜ける「化粧坂」

 この仮粧坂は鎌倉七切通の一つで、今も昔の面影を残し、国の史跡になっています。
 この坂の名の起こりについては、平家の大将の首をここで化粧して首実検したことからその名が付いたとか、また、この坂のあたりに町家があって化粧した女達がいたからとか、木がよく生(お)い繋(しげ)っていたので木生えとか、気勢(気生・形勢)と呼ばれたことからきているともいわれます。
 この険しい坂道は、藤沢から武蔵(むさし)方面に通ずる重要な道で、新田義貞(にったよしさだ)が1333年(元弘3年)5月、鎌倉攻めのとき、この仮粧坂に軍の主力を向けたので、激戦地になりました。

鎌倉 鎌倉交通の要衝であった「化粧坂」

 化粧坂は、鎌倉の北西から武蔵方面に抜ける「鎌倉住環上ノ道」(武蔵路)の出入り口に当たります。鎌倉の交通の要衝であったことから、元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めでも戦場となっています。 『吾妻鏡』建長3年(1251)12月3日条には、鎌倉の中で小町屋及び売買所を構えても良い場所の一つとして「気和飛坂山上(化粧坂の山上)」と書かれています。