核家族になり、横のつながりが弱くなりました。
その結果、社会のルールは、まわりの人達が教え、責任を持つ社会から、自分で責任を持つ社会になりました。
まわりの人たちと共に、社会の制度を維持し、改善しようという社会は、どんどん弱くなっています。
むかしは、ボランティアという言葉はなく、近くの人達でカバーできたのですが、今は遠くの人であってもボランティアの人達に期待するしかありません。
企業の評価が「成果主義」に移行したことも、関係しているのでしょうね!
2026年のアーカイブ
尾道 明治時代に英語塾があった「正授院」
外留学の先覚者土居咲吾が、この正授院でも英語塾を開いて後進を導いた。
土居咲吾は長尾幸作と云い、芸州山県郡から尾道町中浜へ移った開業医長尾俊良の長男として天保六年(1835)に生れた。かねて父俊良から洋学のまさっていることを聞かされていた幸作は、二十一才のとき京都の広瀬元斎に師事して蘭学をさらに二十五才の春、江戸に下り坪井芳洲に学んだが、このあと独学で英話を修得、それで満足できず、たまたま耳に入った幕府の日米修交通商条約批准交換のための渡米使節団の派遣のことであった。
勝海舟の卒いる咸臨丸へ便乗を許され、福沢諭吉らと共に万延元年(1860)我が国を発しアメリカに渡り英学を修めて帰国した。
帰朝後、父が病死し家業をつぐため尾道に帰ったが、芸州藩では幸作を士籍に列し、アメリカ仕込みの新知識としてこれを厚遇した。
その後、軍艦買入密航事件のため一時禁固刑に処せられたが、これは表面だけのことで、久しからず刑を解かれ、このあと感ずるところがあり「土居咲吾」(土に居して吾を咲う)と改名、明治元年三原藩が今の糸崎町に開設した三原洋学所の取締方となり、また長江一丁目、正授院にも英語塾を開いて後進を導いた。
騙しには「サクラ」がよく使われる!
座間 齋藤龍興(道三の孫)の遺臣四名を氏神に「日枝大神」
1841年に再建した際に、棟札に「山王大権現」とありますが、「山王」という文字の意味は天台教義を表します。
〔山王〕の山の字は縦が三画、横が一画で、王の字は横が三画、縦が一画。天台宗の教義である「三諦(締は真理)即一」の理を表すといわれています。あらゆるものごと〔諸法〕の本質は空であり〔空諦〕、空であるが仮に存在する〔仮諦〕、諸法は空でもなく仮でもないことを中の存在〔中諦〕といいます。この〔三諦〕が完全に融合し、ひとつになる〔三諦即一〕ところに真実の姿がある、と説いています。これは〔一心三観〕、〔一念三千〕の天台の教義を山王明神が託宣したものだといいます。
比叡山の守護神として位置づけられて以来、天台宗の広がりにともなって、日吉大社は日本を代表する神社になっていきました。
サクラは稲作にとって神聖な花だった!

サクラは、武士の時代から花見の主役になったという。サクラの花の散る姿が、武士の運命に似ていると思ったのでしょうか?
現在、世界的に花見が広がっているようです。これも、戦争があちこちで起きているからでしょうか?
花見は、すべての不安を忘れさせてくれますね!
鎌倉 子宝のご利益がある「甘縄神明宮」
目先の問題をどう切り抜けるか、という立場からの行動は?
尾道 村上水軍の信仰を集めた「光明寺」
自分に正直になる、それが自分の足で立つということ!
厚木 社殿の前の白山池に棲む白龍「白山神社」
白山神社は、飯山観音背後の白山(標高284m)の山頂付近の尾根道がある。むかしの道は、平野の道は雑草で視界がわるく、手入れも大変だったので、大きな街道を除き、尾根に道をつくることが多かったのでしょう。崩れても手入れが簡単で、視界が得られやすく、道に迷うことも少ないため、尾根を歩くようになったのでしょう。
社殿の前には、池(白山池)があって、古くから雨乞いの霊地とされてきた。
飯山観音(長谷寺)を開いたとされる行基は、この山を登り、霊水が湧き出している池を発見し、加賀国白山妙理大権現を勧請したと伝えられている。
そして、クスノキで彫られた十一面観音が祀られたという。この十一面観音が現在の飯山観音(長谷寺)の本尊といわれている。
あんな曖昧なことを言ったから失敗した?
江の島 台湾近代化の尽力者児玉源太郎を祀る「児玉神社」

明治時代の陸軍大将・児玉源太郎(1852(嘉永5)年~1906(明治39)年)を祀った児玉神社は、児玉が生前、江の島を非常に愛していたことから、この地に神社が創建された。
児玉公は江の島の風景を愛し、しばしば清遊した由縁により1917(大正6)年官許を得て神社創建を決し、後藤新平らの尽力により、主要な社殿が建立され、1921(大正10)年主要な社殿が建立され、7月御鎮座を了えた。1940(昭和15)年県社に列し、公の遺徳を慕う人々の奉賽が多かった。ことに境内には台湾総督時代の関係者による献納の燈籠・水盤などが見られる。
かつて児玉神社は荒れ果てていた。境内を浮浪者が徘徊したり、参拝者が拝殿に土足で上がるなど、廃絶寸前だった。こうした惨状を見かねて、山本宮司が現職を拝命(1980年5月)し、整備した。
江戸時代、江戸の人口が急速に増加!
尾道 石仏の下に象「海徳寺」
快い眠りは、自然が与えてくれる看護婦だ!
鎌倉 関東大震災で倒潰、40年後再建「円覚寺 仏殿」
すべての商品が「売れる」ということはありえない!
厚木 明治の先進民家「古民家 岸邸」
厚木市古民家岸邸として開館されています。古民家岸邸は、郷土に残された貴重な文化遺産として、皆さんに公開しながら長く保存をしていきます、と。
古民家は、当時の生活を色濃く伝えるものです。生活のスタイルが大きく変化してきた現代では、ますます注目されてきています。随所で見られる、職人が手をかけて作った凝った意匠も一遍ではなく、建築当時の時代の先端的な様式を併せ持ち、家を作った職人の技と、家を守ってきた人々の営みを感じてみてはいかかでしょうか。
明治時代になってこのあたりで養蚕業を始められた岸家。絹の輸出で立派な建物を建てることが出来ました。このあたりは桑の木がたくさんあったそうです。今ではまったくありませんが。

















