豊臣秀吉が太閤検地を始めると、天正十九年(1591)には七石の御朱印を賜り、寺領として明治に至るまで隆昌を極めました。しかし明治初年に廃仏毀釈令が発せられると一戸残らず離壇、堂はすべてなくなり、庫裡は小学校として売られました。
(明治維新の廃仏毀釈令は、寺院から撞鐘、半鐘、鰐口などを提出させ大砲の材料とした一面もあったのでしょう。)
明治二十四年になると、第二十五代護三和尚は寺門の復興に努め、丈六(5.28m)の誕生仏を自ら彫刻し、大正年間に完成させました。そのため第二十六代大徹義雄和尚(昭和初期)にかけては、桜花燗漫四月の花まつりに老若男女が訪れ賑わいました。
「破壊された石仏」たち
地蔵菩薩などで、首が欠けたり顔や腕が削られたりした傷ましい石仏を見ます。それらは自然の劣化によって起きたものではなく、明らかに人為的な破壊行為によるものです。 このような石仏に対する破壊行為が起こった背景には、明治維新後に新政府が公市した「神仏判然令」とそれによって影響を受けた「廃仏毀釈」と呼ばれた仏教の排斥運動がありました。 この六地蔵のうち四体は顔の部分が壊されています。厚木地区ではこのほかにも壊された石仏が各地にあります。