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料識亭(ころんぶすのたまご)
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「知識の組み合わせ遊び」へ と 「風土の探検」へ
2026年9月8日(火)
鎌倉 もと光触寺の鎮守社「十二所神社」
 この神社は昔、熊野十二所権現社といって1278年(弘安元年)には光触寺の境内にありました。

 1838年(天保9年)に今の土地を寄付する人がおり、当時30戸の村人の協力で神社を移しました。明治になって神仏分離となり、天神七柱、地神五柱の十二柱の神様をまつり、社名を十二所神社と改め、今日に至っています。

 社殿に向かって右手に小さい社が三つ、山の神社・ほうそう神社・宇佐八幡社(うさはちまんしゃ)と並んでいます。

 鳥居の右に百貫石といわれる石が置かれ、その右奥に神楽(かぐら)殿があります。

 百貫石は、実際には28貫(約112kg)あり、以前は、祭のときにこれを持ち上げたり、かついだりして自慢した人もいたそうですが、今はためす人もいません。

 また、左側には地主(じぬし)神をまつる社もあります。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
知識の組み合わせ遊び・風土の探検 履歴

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 参考にした書籍・場所
 
 1278年、鎌倉時代に創建。熊野大社を勧請して創建された。500mほど南側にある光触寺の鎮守社で、熊野信仰が武士や庶民に広まりを見せていた時期であった。

 光触寺の境内にあった熊野十二所権現の社を1838年に現在地に移転し、明治の神仏分離策の推進により社名を十二所神社と改めました。
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