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「知識の組み合わせ遊び」へ と 「風土の探検」へ
2024年10月22日(火)
厚木 相模国式内社の内愛甲郡一座「小野神社」
 この神社は、延長(えんちょう)五年(1194年)の「延喜式(えんぎしき)」巻九に「相模国式内社(しきないしゃ)の内愛甲郡(あいこうこおり)一座小野神社」と書かれています。

 現在の拝殿は、嘉永(かえい)元年(1848年)に建てられ、わら葺(ぶき)屋根でありましたが、、昭和四十三年に鉄板蓑きに替えられました。本殿は拝殿よりも1mほど高い地面に神明造(しんめいづく)りで造られています。「新編相模国風土記稿」に「閉香明神社(かんかみょうじんやしろ)、村の鎮守(ちんじゅ)なり延喜式に載(の)りし小野神社、当国十三社の一(いつ)にて祭神(さいじん)下春命(したはるのみこと)という」とあります。

 明治時代になってから、この神社の祭神には日本武尊(やまとたけるのみこと)も加えられました。それは日本武尊が東国の賊(ぞく)の征伐(せいばつ)に向かった際、野火(のび)の焼きうちの苦難にあうという「古事記(こじき)」に記述の地が「小野」と関係するとして祭神に加えたもののようです。
知識の組み合わせ遊び・風土の探検 履歴

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 参考にした書籍・場所
 この神社は、建久(けんきゅう)五年(1194年)愛甲三郎によって再興されたとも言われています。愛甲氏の本家の横山氏は、小野妹子(聖徳太子の命により、第一回の遣隋使)の子孫と伝えられ、愛甲氏の家系の信仰は厚く、特に江声時代には、愛甲姓の武将(ぶしょう)の参詣(さんけい)が記録されています。
 この辺りが小野小町の生誕地といわれているが、いろいろな説があり、現在の秋田県湯沢市小野、また山形県酒田市の周辺とも。この他にも京都市山科区とする説、滋賀県彦根市小野町とする説、福井県越前市とする説、福島県小野町とする説、熊本県熊本市北区植木町小野とする説、神奈川県厚木市小野とする説など、生誕伝説のある地域は全国に点在しており、数多くの異説がある。
 小野小町(おののこまち)(生没年不詳)は、平安時代の女流歌人で、六歌仙の一人という文化人の姿の一方で、伝説的な恋多き女としての姿がよく知られている。
 源頼朝以来三代に渡り御家人として将軍に仕え弓の名手として名高い、愛甲村に館を置く愛甲三郎季隆が当社を篤く信仰していた。
 古い納札には建久5年(1194年)に当社を再興した記録があり、その時の願主に愛甲三郎季隆の名があり、また鎌倉幕府政所長官の大江膳大夫廣(広)元の名も残っている。