今回は、戦時中、台湾から座間東原にあった「高座海軍工廠」来て働いていた「台湾少年工」を取上げました。少年工の一人だった周吟朗氏の資料を中核として、台湾の文献や地域の方から寄せられた資射をもとにして、当時の少年工の姿を再現してみました。少年たちの宿舎は現在の大和市西部、そこから泉の森公園を抜けて工廠に通いました。大戦末期にはそこで痛ましい空襲にも遭っています。現在の平和の尊さを思いながらご覧下さい。
この展示会を見に来てくれた小・中学生の皆さんへ
相武台公民館から2kmほどの所、座間市東原に戦時中「高座海軍工廠」という工場があって、工員不足のたて、「台湾少年工」を八千人も連れてきて働いてもらったのです。年少者は十三歳ですから、ちょうどみなさんがたと同じくらいです。その年齢で故郷と離れて遠い日本まで来たのですから、夜になるとふとんの中から「お母さん」といって、すすり泣く声があちらこちでしたそうです。
戦争にはこうゆう悲劇もあったことを、平和の時代の現在、らためて考えてみmしょう。「高座工廠」を知り、「台湾少年工」を知るということは、そのまま“戦争と平和”を考えることになるのです。
台湾少年工が八千人……、と書きましたが、これが一度に来たわけではありません。何隻もの船に分乗して、当時、宿舎のあった大和村(現在の大和市)の上草柳に来て、そこから幾人かは名古屋、横須賀、船橋などの工場へ回された人もいます。写真はあどけない幼顔の少年工たちです。