高座工廠 土地の買収、工廠の状況と戦後
相武台公民館 2Fコミユニティ室にて
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 綾瀬から大和にかけて広がる海軍厚木飛行場に接した工廠を海軍が要求し、その隣接地座間長東原に設置された工廠で、当初は「空C廠」と呼ばれ、台湾少年工の募集はこの名で行われた。高座郡にあっても郡下の若者を工員には取り込まず、高座郡下の高等小学校卒業の者は、同時に出来た千葉県君津郡の海軍工廠の方に振り向けられた。その人的不足分を台湾少年工によって補おうとしたわけである。大戦末期は川の中州に地下室を掘り、地下工場の準備も進められたが、この方は完成を見ないで終戦となった。
高座海軍工廠とはこうゆう所でした。

 「高座」は高座郡の略称です。市になる前は相模原や座間や大和はみんな高座郡に属していました。そこに海軍の工廠(工場)ができたのです。かんたんいに言ってしまえば厚木飛行場の付属工場ということです。厚木飛行場は第二次世界大戦中に、アメリカの爆撃機B29の空襲から、東京とその近郊を守るために急いで作った飛行場ですから、この工場もまた同じ運命を持っていました。

 工場のあった場所は、現在の座間市立旭小学校前の道路が東の境で、西の境は芹沢公園です。北の境は座間市道11号線、南の境は相鉄線の「相模野駅」近くに南門(正門)があり、旭小学校通りのNEC工場の所が東門でした。台湾少年工の皆さんは、多くここから出入りしました。

 厚木飛行場は「雷電」というB29を迎えうつ戦闘機が中心でしたので、高座工廠もその「雷電」の製造や修理が仕事でした。工員不足からそこに台湾少年工が8000人も仕事をしていたのです。最盛期の工員総数は15000人といわれますから、約半数が台湾少年工だったことになります。

 台湾は当時は日本の領土でしたから、少年工の皆さんは一生懸命働くほかはなかったのです。平成が終わろうとしているの現在では皆八十歳をこえた人ばかりですが、みんな日本びいきで「高座会」という会を作って、台湾全国大会や各支部会が今も開かれています。平成30年の今年の秋には、大和市で記念大会が開かれるということです。
綾瀬村の厚木飛行場土地買収

 綾瀬市の買収資料で全体を1~6に分かち、凡例に示してあるようにそれぞれの買収年月が付してある。黒点のところは宅地として買収されたところで、つまりこれだけ多くの家が移転させられたということである。民家だけでなく尊い神社、観音堂といった社寺も移転を余儀なくされた。2と5を除いてはすべて飛行場用地で、厚木飛行場が実質は綾瀬飛行場であった実情がよくわかる。2の部分は高座工廠が南に伸びている箇所であるが、昭和17年に買収が住んでいる。0は随時に買収が行われた小部分の土地。1が飛行場部


分。3が飛行場拡張部分。4はあとから設置された「第2相模野航空隊分。5は場外施設。6は航空隊分。買収総額面積は493町9反 6畝13歩(通常500町歩といわれる)。空地買収は177軒、買収対象者410人、買収価格は畑一反が630円以上(等級により値が違った)。以上の買収が軍の圧力によって短期で行われた。
高座海軍工廠 開廠式祈念写真
 台湾少年工の募集も「空C廠」という名称で行われたのを見ても分かる通り、しばらくはこの名称でおこなわれていた。「高座海軍工廠」という正式名でのスタートは大分遅れて昭和19年のこととなった。
 昨年の「戦争と平和展Ⅰ」で「零戦」乗りの中島又吉氏のお話を聞いていたが、中島氏も「雷電」はむずかしい機種だったようであるが、台湾少年工は果敢にそれに挑んだのであった。
 この記念写真におさまっているのは工廠幹部の海軍軍人(多かったのは技術将校)が主で、近隣自治体代表や陸軍関係学校の代表も招かれているようだが、台湾少年工の代表者が写っているかどうかはよくわからない。何しろ軍人社会は身分社会で、たとえば、こうゆう海軍工場では食堂なども高等官食堂、判任官食堂、工員食堂と三つに分けられていた。戦時の非常社会でありながらも食べ物が違うのである。そういうことを頭に入れた上でこうゆう記念写真などには接すべきであろうと思われる。
 「雷電」という機種の1号機は、船橋の「日本建鉄」などで作られた部品が送られてきて、高座工廠ではただそれを組み立てるだけであったから、その試験飛行では千葉県側まで挨拶飛行に出向いている。
 台湾少年工の作った「雷電」1号機の試験飛行は、それよりずっと遅れて昭和20年3月3日のことで、残念ながらこの飛行は失敗に終わった。







高座海軍工廠
・製造 戦闘機「雷電」(主に組立・修理)
・工員 約一万人(計画では3万人)このうち、約8千人が台湾少年工
・操業 昭和19年(1944年)8月~20年(1945年)8月
・施設 
・位置 現在の座間市東原一帯 厚木飛行場に隣接【面積:100町歩超】

 写真は当時の森林の中へ「零戦」を引き込んで、米軍機から分からないようにして修理に当たる台湾少年工たち。芹沢公園そのものは平成の末年、芝生の広場、管理棟、駐車場、周辺道路など、すっかり整備されて見違えるほどになってしまったが、当時は高座工廠の西端部分として活用されており、写真のような森林中での整備・修理や、地下壕・地下工場などに当てられ、2018年の現在でも三つの「地下壕入口」が残され、当時の様子をしのべるようになっている。

地下工場(地下壕)

空襲を避けるため地下壕に工場が造られた。(横堀)
・素掘り=土を掘っただけ(ささえの杭などはない) ・入口 高さ=3.4m 幅=3.5m
・地表=山林 息抜き穴(換気)

下栗原から芹沢谷戸辺りにあった。
・地下工作工場:三ヵ所
・地下物資倉庫:十数ヵ所
・地下変電所などもあった。
概要:  少年工募集から来日:  工廠-生活と就業:  工廠-用地買収から戦後:    
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