高座工廠 土地の買収、工廠の状況と戦後
相武台公民館 2Fコミユニティ室にて
地下工場と朝鮮人労働者の問題
高座工廠には台湾少年工問題と並んでもう一つの国際問題がある。それが朝鮮人労働者問題である。大戦末期、日本国の地下壕や地下工場づくりには多くの朝鮮人労働者が実際に仕事をし、高座工廠にも当然そういう事実があったのだが、その実体は不明のままである。自治体は当時、「相模原町座間」だったので文書管理の責任が座間にあるのか相模原にあるのか、という問題をややこしくしている。文書としては戦後の朝鮮人帰国にからむ1通があるだけでる。
いのだが、今のところまだそれは果たされずにいる。
同じ問題を千葉県ではかなり明確に把握しているので、木更津図書館の資料を借用して、高座工廠のそれに採用することにしたい。集団で朝鮮から労働者が連れてこられたのは昭和17年10月で釜山から横須賀へ約2000人、浅間丸という船であった。このうち200人が八重原工場へ行かされ、10月31日に到着
している。同じ時期の事として高座工廠へも何百人かは来ている筈であるが、まったく不明である。周吟朗氏の証言によると、第三工場ののこぎり屋根や芹沢の地下工場工事で働く朝鮮人を見、また大和の宿舎から工場へ行く途中に朝鮮人の飯場を見た、と言っておられるので、そういう証言をこの問題の解決につなげた
高座海軍工廠地下工場遺跡
座間市芹沢公園に保存あされている旧高座工廠地下壕
座間市道11号線を大和に向かって走り、芹沢陸橋を渡ったらすぐ右に折れると、そこが芹沢公園の北東側入口。沢を目指して下り、行き当たったら左に折れると、保存されている二本の地下壕が相継いで見えてくる。
高座工廠跡の開拓
上の図は高座工廠あとの地の開拓の略図です。工廠南端部の土地はかなり複雑です。座間、綾瀬、大和の接する所へ、海老名の柏ヶ谷がちょうどえびのしっぽのような形で入りこんでいます。
これらの部分が終戦直後、食糧増産のために開拓されましたが、座間の分はほとんど地元の農家に分けられ、海老名の柏ヶ谷部分は「高座開拓組合」「海老名晴耕組合」の二つに任され、綾瀬の大上部分は「光開拓組合」が担当しました。この三つの組合のくわしい内容は次の表の通りです。(当時の1町は約1ヘクタール)
工廠跡がこんな立派な畑に!
軍用地の開拓とは、戦争から平和への移り変わりそのもので、ややくわしく書きましょう。ここにかかげた3枚の写真は終戦から10年目に神奈川県が発行した「開拓十年」という冊子からの引用です。軍関係の施設や工場の跡地の開拓が始まり、農地化され、宅地化され、軍を思い出させるようなものが次々となくなっていき、人々は本当に平和が来たという実感を強く持ちました。一番上の写真は、高座工廠の跡がこんな立派な畑になってナスやトマトの収穫ができるようになったという証拠のようなもので
組合名 所在地 入植年時 戸数 面積
・海老名晴耕 海老名町 昭和21年 12 9町6反
(約10ヘクタール)
・高座開拓 海老名町 昭和23年 34 27町4反
(28ヘクタール)
・光 綾瀬町
これらの開拓地は水道と電灯は敷かれていましが、工場あとですからコンクリートで固められていて、その点では、相武台陸軍士官学校あと地のような草原ではありませんでしたから、開拓には苦労があったのです。
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す。別のパネルにも書きましたように、工場のあとというものはコンクリートで固められていて、開墾するのに大変な苦労がいるのです。しかい当時の開拓団の人々はその困難をのりこえてこんな立派な畑にしました。場所は今の海老名市柏ヶ谷、つまり相鉄線の相模野駅近辺です。開拓団の人々はこういう所に野菜、さつまいも、おかぼなどを栽培しました。おかぼは特に照りに弱く、田んぼの稲の20%くらいの収穫しかありません。しかし幸いなことに後に「畑地かんがい」の水道がここを通りましたので、大変助かったのです。畑かん図を添えましたので見てください。飛行場の左側を通っている線がそれでう。座間東原の人々は
道の西側に桜を植えて、これが今は「畑かん桜」といわれ、お花見の名所になったいますね。
写真の中と下は、開拓地の中に作られた「精米」「製粉」「なたねの油のしぼり機」などの農村工場のようです。終戦直後のことですから、機械類はみんな
そまつなものですが、人々はこうしてよみがえった平和のくらしを本当に大事にしたのです。