戦 争 太平洋戦争 アメリカとの戦い
相武台公民館 2Fコミユニティ室にて
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太平洋戦争中の日本

 当初は破竹の勢いで敵地に進行しましたが、翌年(昭和17年)、ミッドウエー海戦で敗れると、飛行機の戦いで次第に劣勢になりました。特に高高度で飛行するアメリカの大量のB29爆撃機に対応するのが難しかったのです。

 これに対応する戦闘機を大量に生産しようとしたのが、高座海軍工廠だったのです。しかし、学徒までもが、戦場に、製造現場に動員されていたので、働き手が極度に不足していました。その働き手になったのが、日本の教育を受け、日本語もできる台湾の少年だったのです。

大戦末期は防空壕が日常に

 最初の日本空襲は昭和17年4月18日のドウリトル中佐のB25による空襲。これは陸軍機に乗せて房総沖から発信させ、東京・名古屋などを空襲の後、日本海を飛んで中国大陸の中国軍飛行場に着陸させた。但し燃料などの関係から何機かは誤って日本軍の飛行場に降り、8人が捕虜となってそのうち3人が無差別銃撃などの罪で処刑されている。大戦末期となると重爆撃機B29による夜間の焼夷弾空襲が頻繁となり、3月10日の夜の東京空襲(B29 200機)、7月16日の夜の平塚空襲(B29 60機)など。加えて硫黄島からは小型機のP51が連日飛来し、機銃掃射などで人々を悩ませた。こうなると防空壕だけが頼りとなる。左の写真は 某新聞社のものだが、家族ぐるみの防空壕暮らしが日常のものとなってくる。ただ、庶民の者は土を掘り、支え柱を立て、その上に炭がらを乗せるくらいの粗末なものだったので「いざという時の役」に立たないものが多かった。
 硫黄島を占領した米軍が飛行場を完成し、そこに運び込まれた陸軍の戦闘機P51が初めて日本本土を空襲したのは昭和20年4月19日の昼少し前でし。96機という大軍で、これが四隊に別れて東京、神奈川方面を攻撃してきたのです。

 厚木方面へもその一隊がきましたので、厚木航空隊雷電の隊長だった福田秀雄大尉は雷電29機を率いて、これを迎え撃つため飛び上がりました。ちょうどこの辺りの上空で約50分間の空中戦が繰り広げられました。

 雷電側にとって不幸だったことはP51の初空襲でしたから相手の飛行機のことがよくわかりません。バタバタと雷電3機が撃墜され、その中に福田大尉機があったのでした。福田機は、厚木飛行場滑走路の北側から東へ九キロ当たり、現在の横浜市旭区白根町に墜落し、福田大尉は戦死しました。ちょうど近くにいた人々が大尉の遺骸を近くにあったお寺(円正寺)へ運びを見ましたので、上の写真にあるように福田大尉のお墓は円正寺にあります。
 お母さんの文枝さんは悲しみのあまりいくつかの歌を読みました。そのうち3首を見ましょう。

・塚の土 握りしめつつ口惜しき 搭乗機の破片 今なおここに
・うら若く 戦死は遂げし我が子思えば 狂おしきまで 嘆きつきせず
・香たきて 又新たなる涙わく 尽忠報国のまごころとはなに

涙なくしては読めない歌ばかりですね。母と子を引き裂くこれが戦争というものの実態です。現在の平和の尊さをかみしめてみましょう。



雷電(らいでん)

・局地戦闘機:陸上の基地から発進して主に基地周辺の防空に当たる戦闘機。
・米軍の「B29」の高々度爆撃に対する迎撃機:上昇能力・高速に優れる。

・高座海軍工廠での生産:昭和19年8月、1号機完成。その後、昭和20年8月までに127機(計128機)製造。
・寸法:翼長10.8m 全長9.9m 尾翼長3.82m
・エンジンが大きいため機体が太く、操縦席からの視界がかなり悪かった。
・昭和19年(1944年)6月16日、B29を撃墜して必要性が認められた。
・性能:最大速度(高度6000mにおいて)577.2km、航線距離(時速352km)で1845km 1575馬力
・武装:胴7.7mm×2 翼20mm×2 爆弾30kg
B29を迎撃した雷電・月光 厚木飛行場

 厚木飛行場は海軍の「302空」(司令小園安名大佐)が帝都防衛の役目を担い、折りから激しくなった夜間のB29の空襲、昼間のP51やグラマン戦闘機の空襲などに備えた。機種は主として双発夜間戦闘機「月光」と、昼間の空襲に対処する単発戦闘機「雷電」の二つで「月光」は川西航空機が担当し、高座工廠は「雷電」を担当した。被弾して降りてくる雷電は飛行場のどこで動けなくなるかもしれない。
B29対策に生み出された「斜銃(しゃじゅう)」

 第二次大戦末期、日本本土を繰り返し空襲したB 29対策として、厚木航空隊司令小園大佐が発案した「斜銃」は、夜間戦闘機に30度上向きに固定銃を取り付け、B29の後下方を飛びつつ連続射撃するというものであった。写真は戦時中の厚木飛行場で、下方の「銀河」に斜銃2門が取り付けてあるのがわかる。上方の2機は「月光」で、これらにも斜銃が取り付けられた。厚木空に「月光」51機、「銀河」は8機配備。
台湾少年工たちは呼び出しがある度に重い工具箱を担いで、広い飛行場を走り回って事故機を探すという日常が続いたのであった。
米空軍重爆B29のデータ
全幅43.1m 全長30.18m 最大速度55 km 航続力5230km 爆弾4.5トン 武装12.7mm銃×10
日本海軍の空母搭載戦闘機零戦データ
全幅11m 全長9.1m 最大速度565km 航続力6500km 軍座 武装20×2 7.7×2







 この写真の二つの模型は、昨年の展示会の時のギャラリートークで、中島又男氏が用いられたB29とゼロ戦の模型だが、両機とも別々の寸法基準によっているので、大きさの比較はできない。中島氏の話によれば、ゼロ戦でB29を迎撃するときは、最初のうちは斜め上から攻撃とされていたが、大戦末期には正面



からの攻撃に切り替えられたという。11mの幅の小型機が43m巾の大型機に突っ込むのであるから恐怖も大きいかと思われるが、中島氏は恐怖はなかったと話された。救いだったのは「私はB29を一機も落とせなかったが、自分も生き残ってこれこられたという話であった。
水上機母艦「神威」とカタパルト発射の複葉機

 下の写真は珍しい形の軍艦だと思われている方が多いだろうが、これは当時の水上機母艦であり、左の写真は艦載の複葉の偵察機をカタパルトで打ち出したところである。共に近哲夫氏提供の「昭和11年軍艦神威・南洋諸島基地調査アルバム」から採録した。この年はこのようなのんきな役についていたが、翌12年7月には日支事変が勃発するので激務の年となる。同アルバムの中に「第三航空戦隊司令部」の写真もあるので、戦艦「出雲」と共に本格的な 出動となる。
概要:  少年工募集から来日:  工廠-生活と就業:  工廠-用地買収から戦後:    
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