高座工廠関係 その他
高座工廠 記念の事業
ウォーキング地図へ
台湾少年工理解のための基本文献二冊
右表紙=台湾版「写真帳・台湾少年工」
左表紙=英語版
日本語訳
「緒言」冒頭の部分の日本語訳
(四期生として高座海軍工廠に入った陳碧?氏の「台湾少年工写真帳」の緒言には、次の如くある)
1.我々は騙された
 工学真意燃える若者達は学校をとおしての募集の話から、半工半学として能力のあるものは工業高校、又は、専門学校卒業の資格が得られ、五年後の帰国時には、技手、技師資格が与えられるとの事だったので、これはよい機会だと、台湾少年工は先を争うようにして募集試験に応じた。家族の反対を顧みず(応募に印鑑が必要だったので)家長の印鑑を盗み出して応募した。かくゆう私もその一人であった。
 四期生として我々は1943年(昭和18年)7月にカオシャン(台南と高尾の中間にある都市)で二ヶ月の訓練を受け日本に到着。当時の「相模出張所」(後の「空C廠」で、当時は「第六一海軍航空廠」、さらに、「高座海軍工廠」となった。)に入った。それは九月三十日のことである。
 宿舎に到着した瞬間、これは「工員宿舎」だと直感した。工員作業服、工員帽を配給され、それは、学生服でも、学生帽でもなかった。私たちが台湾から
抱いてきた夢とは違って初めて「騙された」と散った!
 去年も開いた「戦争と平和展」の中で特に好評だったのがこの軍事郵便展でした。もう一度見たいというリクエストもありましたので、スペースは縮小しましたが、もう一度展示することにしました。絵手紙の主は、北海道の営林署づとめだった室崎伍長さんで、妻子を残して満州の関東軍に召集され、東満州の東案というところに駐留されました。(東安の地図上の位置は、第一部展示の終わりにあるノモンハンのパネルを見てください)。幸いなことに当時、東満州には大きいた戦争はありませんでしたので、室崎伍長さんは故郷の妻子に向けてたびたびの絵入の葉書を出しました。ここに展示しただけでも189通という大変な数です。(去年と違って今年はクリアファイルの中に入れてあります)。どれもこれも妻や子供のことを心配した葉書ばかりですね。戦地に行っても父親というのがこんなに家族のことを思っていたのです。皆さんは平和の時代に生まれて良かったですね。室崎伍長は幸運にも生還されて家族と再会できましたが、多くの兵士は戦死されて家族のもとへは帰れなかったのです。そういうことも考えながらこの手紙を読んでください。
英語版
台湾版「写真帳・台湾少年工」

「緒言」冒頭の部分の日本語訳
1.我々は騙された
 工学真意燃える若者達は学校をとおしての募集の話から、半工半学として能力のあるものは工業高校、
又は、専門学校卒業の資格が得られ、五年後の帰国時には、技手、技師資格が与えられるとの事だったので、これはよい機会だと、台湾少年工は先を争うようにして募集試験に応じた。家族の反対を顧みず(応募に印鑑が必要だったので)家長の印鑑を盗み出して応募した。かくゆう私もその一人であった。
 四期生として我々は1943年(昭和18年)7月にカオシャン(台南と高尾の中間にある都市)で二ヶ月の訓練を受け日本に到着。当時の「相模出張所」(後の「空C廠」で、当時は「第六一海軍航空廠」、さらに、「高座海軍工廠」となった。)に入った。それは九月三十日のことである。
 宿舎に到着した瞬間、これは「工員宿舎」だと直感した。工員作業服、工員帽を配給され、それは、学生服でも、学生帽でもなかった。私たちが台湾から抱いてきた夢とは違って初めて「騙された」と散った!
 周氏は台北中学卒業者で昭和19年3月、日本の高座工廠少年工募集に応じて来日、終戦まで働いて帰国、日本に友人も多く、前公民館長平方勝美氏とは会社関係を通じて早くから親交があり、本展文責者の「厚木飛行場と高座工廠」執筆には資料上の多大な協力があった。その書簡のうちの一部を拡大して展示させていただく。手紙の実物と「厚木飛行場」の著者は展示ケースの中にあります。




概要:  少年工募集から来日:  工廠-生活と就業:  工廠-用地買収から戦後:    
ウォーキング地図へ
争-中国:  戦争-アメリカへ:  少年工の戦後:  記念事業:  その他: