高座工廠 記念の事業
相武台公民館 2Fコミユニティ室にて
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台湾少年工の慰霊碑のある

 善徳寺は東名大和トンネルのすぐ南側の高台にあるお寺です。別のパネルに書いたように台湾少年工の6名が空襲で亡くなっていますので、その慰霊にがこの寺にあるのです。建てたのは職場の上司だった早川金次技手(技手というのは工員を指導する立場の人)です。 写真は上から「慰霊碑の正面」「副碑の文章」「碑におまいりされる台湾の周吟朗さん」です。順に説明していきましょう。上の碑の太平洋戦争というのは第二次対戦のことです。碑の文字は 当時の少年工の一人将君輝くんの文文字です。石の種類は根府川石です。中の写真は御影石に掘られた早川さんの追悼文です。少し難しいのですが原文通りにたどってみましょうね。
《太平洋戦争の末期にこの地に高座海軍工廠在り。13歳より20歳迄の台湾本島人少年の八千余名、海軍工員として故郷を遠く離れ、気候風土その他の悪環境をも克服し、困難欠乏に耐え、連日の空襲に悩みつつも、よくその実務を完うせり。されど病床に斃れあるいは爆撃により無残の最期を遂げたる者、数多し。遺骨は故郷に帰れど、夢に描きし故郷の土を踏み懐かしの肉身との面会も叶わず、異郷に散華(亡くなること)せる少年を想う時、十八年後の今日、涙また新たなり。これ等の霊魂に対し、安らかなるご冥福と、かかる悲惨時の再び起こらぬ永遠の平和を祈り、之を建つ。昭和38年11月(以下略)》というものです。まさに戦後の時代と平和の時代を橋渡しする表現ですね。この展示会の テーマ「戦争と平和」の生き証人のようなものです。よく心にとめておいてくださいね。下の写真は2010年4月14日に台湾から来日された周吟朗さんとともに、実行委員の人々がその善徳寺の慰霊碑にお参りした時の記念写真です。当時周さんは88歳でした。
善徳寺正面と慰霊由来碑

 善徳寺は浄土真宗の古い寺で、現在の地名表示は大和市上草柳3-5-10。当時の少年工宿舎のほぼ真ん中の場所にあった。早川金次氏はこの寺を頼られた理由である。本展第一部の周吟朗氏ももちろん来日の度にここを訪れられるが、周氏は空中爆雷でバラバラにされた遺体の収集に当たられたのであったから、ひとしお感慨深いものがおありと挨拶している。台湾亭へご案内した際の特に無口であられた周氏を今更ながら思い返している。

 早川金次氏と並んで大和にもう一人。特記しなければならない人がいる。それは保坂治男氏で、大和市立柳橋小学校の校長であられたことから、地元の少年工のことに由縁を感じられ、何度も台湾を訪ねて研究を深められ、国内では少年法の語り部として講演活動などに携わっていられる。左がその写真で、少年行になりきっての熱演は多くの聴衆を感動させている。台湾高座会との交流も深く、「望郷のハンマー・台湾少年工」の著者も持たれる。現在の日本では少年法研究の第一任者である。(「望郷のハンマー」は陳列ケースに展示)
早川氏が帰寮をとめ、やがてその解除と共に帰寮を許可したが、その途中一機だけ厚木方面の空から反転してきたグラマン戦闘機に泉の森公園辺りで襲われ、空中爆雷攻撃を受けて少年工6名が犠牲となった。その詳細は周吟郎氏聞き書パネルで示したが、早川氏はこの被害をあたかも自らの責任のごとくに受け取られ、個人の資力で至近の善徳寺の墓地を購入され、慰霊碑を建てられたのであった。この話は台湾に戻ってから少年工たちが結成した「台湾高座会」の人々をいたく感動させ、それ以後は高座会の人が来日すると、必ずこの慰霊碑に詣でる、というまでになった。
少年行の上司早川金次郎子が一人で建てた碑

 平塚出身で高座海軍工廠の技手の一人だった早川金次郎氏は職場での少年工の上司の立場にあった。昭和19年7月31日の朝、夜勤明けの少年工の一隊が帰寮する時、折りからの空襲警報発令だったので、
当時、大和村役場から工廠の人事係へ
 目代さんは結婚前の旧姓は山中。大和村役場の人事係職員だったが、台湾少年工が多量に移入し始めたので工廠の人事係に異動し、以後、少年工たちとは最も密接に関わることになる。今回の展示会がこの人の協力を得られたのは最大の幸運であった。少年工全般のことを詳しく知る人はまずこの人をおいて他にはいない。左の写真は、工廠人事務の人たちが休日に箱根旅行し、乙女峠から御殿場に下りた時のもの。
後列左端白い帽子をかぶった人が役場時代からの上司であった谷屋書記長(共に工廠に移った)。少年工の林勝乾氏も同行している。
 今回、目代さんから提供していただいた資料は少年工書簡・葉書が154点、写真数十点、名簿など数点、台湾高座会の記念誌、大和市の歓迎会記念誌などであるが、最重要の少年工書簡については内訳を示しておこう。郭文鍾28通、鄧海三14通、王登春18通、陳端義14通、黄茂己13通、林勝乾9通、遊祥馨9通、郭春况11通、黄清標9通、郭宗田9通、李清訓3通、李雪峰(台湾高座会会長)2通、等々である。





大和市草柳の「泉の森公園」

 広大なもので、東名高速道路によって分断されているが、その東名のすぐ南側に、「少年工慰霊碑」の建つ善徳寺と、台湾高座会の人々が寄進した「台湾亭」がある。この近辺は、当時の少年工たちが工廠への通
勤の道として使ったところで、米軍機グラマンによる犠牲者が出たのもこの辺りであった。
 芹沢公園は芹沢川の源流探訪、泉の森公園は引地川源流の探訪となる。
 芹沢公園
概要:  少年工募集から来日:  工廠-生活と就業:  工廠-用地買収から戦後:    
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